名前を読んで振り向いてくれるのは機嫌の良い時、逆に短いその眉毛がぴくりと動いたら、何も言ってはならない日。
 ヘッドホンをしながら歩く日は視界に入ったらいけなくて、どれにも当てはまらない時は何でもいいから話を続けること。
 これが一緒にいるために俺がみつけたルール。一番大事なのは適度な距離に居続けること。
 だってツッキーは意外とさみしがりやだから。



学校の目の前の坂を下るいつもの帰り道。いつものように俺はその名を呼ぶ。
「ツッキー」
「何」
 隣で歩くツッキーはヘッドホンを首にかけたまま、俺の方をちらっと見た。動いた眉と短い声に、今日のツッキーの機嫌が約80点だと知る。今日何か良いことでもあったのかな。こんなに機嫌の良いツッキーは久々だ。
「今日昼休みに5組の佐藤香代って子が、ツッキーと話がしたいって俺のところに来た」
 ロッカー前でツッキーを待っている間に現れた隣のクラスの女の子。俺とツッキーが一緒にいることを知り、近付いてくる女子は珍しくない。その分俺はちゃんと残らず伝言を伝える。
「茶道部の156cmで、ツッキーと仲良くしたいからメルアド教えてください、だって」
 ツッキーは小さなあくびをして、ふーんと興味なさそうに言った。予想通りのいつもの反応に、俺は口角を上げる。
「それで、明日の昼休みあいてるなら会ってほしいって言ってたけど」
「あっそ」
 会う気にもなれない。そうかかれた横顔を見て心が弾む。明日ツッキーは一緒にお昼を食べてくれるんだろう、その子じゃなく俺となら。顔の筋肉が緩むのを必死でおさえながら、前を向く。180cm近い俺でも見上げるくらいのツッキーと、子供みたいなあの子が似合うわけがない。胸の中で一人うなづいて、大きく足を前に出す。今こうして俺はあの子がいられない場所にいられる。ツッキーはおれの話を聞いてくれる。ほんの少しの優越感を噛みしめる。本当はツッキーに近づく女の話なんてしたくもないんだけど、ツッキーがこんな反応をしてくれるおかげで、俺はいつも笑っていられる。こんな風に俺の逆襲の手伝いみたいなことさせてごめん。内心そう思ってるけど口に出さないのは、この場所を失いたくないから。
「正直、ツッキーはどう思う?」
 機嫌の良いこんな日なら、これくらい聞いても答えてくれるはず。俺はツッキーの顔を覗き込みながら言った。ツッキーは少し眉を寄せて遠くを見ている。頭の中で返事を予想してみる。
「面倒」
 唇の動きに合わせて再生した脳内シミュレーションが現実とハモリを見せる。やった、大正解だ。1人密かな達成感を味わう。だって俺、ツッキーのことなら何だって分かるから。自分を好きだと言ったり、急に近づいてくる人が嫌いだってことは良く知ってるんだ。
 だからこそ俺の気持ちは何があっても言わない。今もこの胸の中でじたばたしてる心臓のことを知られたら、いけないんだ。
「山口、この前言ってたバンド、意味不明だった、歌詞も曲も」
 思い出したように告げた横顔に、その気持ちが膨れ出すのが分かった。3日前、帰り道で話題のひとつとして口にしたバンドの話だ。その日のツッキーは、今日とは真逆の機嫌20点の日で、俺は何でもいいからと思いついた順番に話を続けていた。いくら話しかけても何の反応もしてくれなかったけど、ちゃんと聞いてくれていたんだ。しかも自分で探して聞いてくれたなんて、やっぱりツッキーは優しい。
「俺、アルバム持ってるから、明日貸すよ」
「別にいらないから」
「そっか、ごめんツッキー」
 むくむくと温かいものが体の中を満たして、とうとう顔の筋肉まで達した。駈け出したい衝動だけは、なんとか引きとめ、胸の中で何度も繰り返し、その気持ちを囁く。
「何ニヤニヤしてんの」
「え、ごめんツッキー」
 だってツッキーのこと大好きだから。膨れ上がって口から溢れてしまいそうになる気持ちを、必死に飲み込む。ツッキーのそういうところ好きなんだ。歯と歯の隙間からこぼれ落ちないように、奥歯をしっかりと噛みしめる。好きだよ、ツッキー。それでも動いてしまいそうになる唇を、俺はその名で誤魔化していく。
「ツッキー」
「何」
 ずっといたいから言わないけど。言ったら終わってしまうから。ツッキーのこと全部知ってる俺だから。
 ほらまた、こぼれ落ちそうになっても、大丈夫。
「ツッキー」
 困ったような顔をしたツッキーの右手が、こめかみのあたりを軽くこづいた。世界が揺れて、心も揺れた。