ただいま、とドアをくぐりぬけるようにして部屋の中に入って身震いをひとつ、玄関にそろえて脱いである靴を見下ろしてはツッキーが既に帰っていることを確認する。見慣れたサイズで見慣れないデザインのブーツに、新しく増やしたんだなぁと思いながら、その隣にトレッキングシューズを脱いでは並べておいていく。手に提げていたスーパーのビニル袋を廊下に下ろせば、
「おかえり」
 リビングから廊下をのぞきこんだツッキーと目が合って、俺は目を細めて「ただいま」と繰り返す。温かい部屋の空気に促されて上着を脱げば、ツッキーが寒そうに肩を丸めながら廊下に出てくる。
「冷蔵庫、まだいろいろあるけど」
 廊下の上に置きっぱなしの膨らんだビニル袋の端を指でつまんで中をのぞきこむ。
「うん、知ってる」
 俺の返事を耳にして振り向いたその顔は呆れていて、また余計なものを買ってきたのか、この前無駄遣いするなって言ったばかりなのに、と目で訴えている。本当は口に出して俺を責めたいんだろうけど、俺が自分のお金で買ってきた物にまで文句は言えないと我慢してる、そんなとこじゃないかと思う。俺もツッキーがこれ以上俺に言わないって分かってるから止めないのも事実なんだけど。
「ケーキ買ってきたから、食べよ?」
 上着を抱えた腕に持っている箱をツッキーに示せば、呆れを通り越した顔つきのツッキーの指先がコンロの上のケトルへ伸びた。水を入れたケトルをコンロに戻して火にかけ、取り出したカップにティーバッグをセットし終えるなり、さりげなく言い残してリビングへ戻る。
「お湯湧いたらよろしく」
「うん」と振り返れば、カップの横には食器棚から並べられたケーキ皿とフォークがちゃんと二つずつ揃えられていて、俺は思わず小さく笑う。お菓子屋の紙箱を開けてケーキを慎重に並べているうちにお湯が湧き、それを注いだカップからは紅茶の良い香りがふわりと広がる。ほっと一息ついたらリビングからツッキーがまたやってきて、何も言わずに紅茶のカップを二つ手に取って運んでいく。
 スーパーで買ってきた食品を適当に冷蔵庫におしこんでビニル袋をぐしゃぐしゃに折りたたんで専用ボックスに放りこんだところで、
「早くしないと冷めるけど」
 リビングでテレビ画面を見つめたままのツッキーの声が飛んでくる。いまいく、と言いながらケーキを載せた皿とフォークをつかんでリビングへと入る。テレビの前で小さく膝を抱えたツッキーの隣には、しまい込んでいたファンヒーターが動いていた。ニットセーターの上からパーカーを羽織っているツッキーは、それでも寒そうに見える。
「もう出したんだ?」
 テーブルの上にケーキを並べた俺の顔を見上げて、「ん」と一瞬止まってから、反対側に置いてあるファンヒーターの方を向く。あぁ、と気が付いた声色を出しては、「もう11月だから」と短く口にする。でもそれ効き悪いね、そんなんだったっけ?と話しかけながらツッキーの紅茶のカップに砂糖をふたさじ。もう替え時かもね、と曖昧に話すツッキーの視線の先には、ツッキーが昔から好きなアニメ映画の冒頭場面が流れていて、またこのDVDを見てるんだなぁと思う俺の視界の隅っこで、空になったDVDのケースがそれを証明していた。
 ケーキのフィルムを俺が剥がすのを横目で見て、ようやくツッキーがフォークを手にした。別に先に食べても良いのに、ツッキーはそういうところで未だに俺に気を遣う。俺がツッキーと一緒に食べたいってだけで好きに買ってくるだけなのに、ツッキーは絶対に俺より先に手を出そうとはしない。ようやく画面から離れたツッキーの視線がケーキをとらえて、そして俺を見る。二駅となりの有名なパティシエの店のケーキだ、箱の名前も見ないで分かるのは流石ツッキーだなぁなんて、俺はツッキーの視線に気付かないふりをする。
 そのまま一口目を頬張った俺にうながされるようにして、ツッキーはようやくフォークの先でケーキに触れた。テレビ画面からは軽快な音楽と一緒に聞き慣れたセリフがいくつも流れてくる。脇目も振らずにケーキの一口目を口にしたツッキーの目が少し見開いて、ゆっくりと細められる。俺はそれを見ながら、良かったと息をつく。
「この前テレビで見て、気になってたから買ってみたんだけど、ツッキー的にどう?」
 紅茶のカップに口をつけて嬉しそうにしているツッキーにようやく話しかける。
「ん……まぁまぁ、悪くないんじゃない」
 そう言いながら、すぐに二口目を口にしている様子を見て、俺はこっそり胸の中でガッツポーズをとった。
 ふたつのケーキはあっという間に消えてなくなり、口の中に残る甘さを感じながら俺はそっとツッキーの隣に近づいた。満足そうに紅茶を飲みながら画面に釘づけのツッキーの肩に、さりげなく、でも確かな強さで肩をぶつける。何、と俺を見るツッキーの目と目が合って、俺は大げさに笑って見せる。
「ツッキー、この映画ほんとうに好きだね」
 ん、と曖昧に返事をして誤魔化そうとする。映画は中盤にさしかかって目が離せないわけでもないのに、ツッキーはあえて画面から目を動かそうとしない。
「何で好きになったんだっけ?」
 ツッキーは俺の顔を見ずに「忘れた」と言うけれど、それはきっと嘘なんだろうなと思わせるその横顔の雰囲気に俺はこっそり満足する。カギっ子だったツッキーが留守番中に何度も見た、主人公が恐竜の卵を拾って育てる話、その映画の主人公と同じように恐竜のぬいぐるみを抱えて過ごした思い出を、俺はずっと前にツッキーが話したことを忘れられずにいる。ツッキーいわく、なんだか落ち着くんだというこの映画を、俺は二人で暮らすようになってから何度も一緒に見ている。
 空になったカップをテーブルに戻してツッキーの手に手を重ねる。
「何」
 あわてた様子もなく俺に尋ねたツッキーに、俺はもったいぶって口を開く。
「ん、えーとね、あのさツッキー、」
「……何」
 画面の中ではお別れの準備をする主人公の男の子が悲しそうに笑っている。
「俺、やっぱり、すごくツッキーのこと、好きだなぁって、」
 ツッキーの反応のない一秒を挟んで、俺は続けた。
「そう、思ったよ、って伝えたかっただけ」
 ぶつけた後もくっついたままの肩が、ちょっとだけ熱くなる。何年経っても、それを口にすれば必ず決まって温かくなる。
 テーブルの上の空の皿を見ながら「そのために買ってきたってこと?」と尋ねたツッキーに、俺は笑って、
「そうだけど、そうとは言えない、かな」
 なんてね、と付け足せば、「何それ」と少し可笑しそうに笑うツッキーの声がした。俺の顔をのぞきこむように首を傾げたツッキーの顔は機嫌が良さそうで、俺はますます胸の中のものが膨らんでいく感覚に満たされていく。やっとこっちを見てくれたなぁ、と思ったら自然と口角が上がっていく。
「ツッキー」
 画面に向けられたツッキーのほっぺに手をかけて、そのままほっぺにちゅーをする。ちょっとくすぐったい、と邪魔そうに顔をしかめたツッキーだけど、本当に嫌なわけではなさそうで、俺は幸せだなぁなんて思いながら肩の触れる距離でツッキーと並んで膝を抱えて画面に向き直る。これ以上やったらツッキーが怒るかな、と思いながら、美味しかったケーキの味とツッキーの嬉しそうな反応を振り返っては、にやけてしまう。
「ツッキーのことすごく好きって伝えたいなぁって、そういう気分だったから、一緒にケーキ食べたいなって思って」
 半分ひとりごとみたいな調子で口に出したら、こつん、とツッキーの頭が肩に乗せられた。予想外の重みに無意識に目を向けた俺に対し、見上げたツッキーが珍しく冗談めいた口調で返す。
「別に、こっちもたまにはこうするのも良いか、って気分なだけだから」
 そっか、と俺はつられて冗談めいた笑いをこぼした。
 画面を見つめて顔を見せようとしてくれないツッキーの表情を想像しながら、その冗談めいた空気にまかせて、俺はその髪をゆっくりと指で梳くようにして撫でてみた。ツッキーは身じろぎひとつせず、ずっと黙ったままだった。結局、映画のエンドロールの最後の最後まで、俺はずっとそんな風にツッキーの頭を撫でていたのだった。