目覚ましのアラームが鳴る前に珍しく目が覚めた。重い瞼をこすりながら起き上がる。部屋の中に漂う空気がどことなく湿り気を帯びていて、雨が近いのかもしれない、と思う。カーテンを閉めたままの窓を睨みながら布団を抜け出す。
 制服に着替えてから、鏡の前で、くしゃくしゃでくせのついた髪を手で撫でつけながら、雨が降ったら嫌だなぁ、なんてもう一度考える。雨の日はどうしても、くしゃくしゃになった髪が自分の巻き角に絡むし、カビ臭くなる気がして好きじゃない。少しでも湿気を吸わないように、固く絞ったタオルで水拭きをし、専用クリームを薄く塗る。
「降水確率は90%、丈夫な傘があると良いでしょう」
 母さんがつけっ放しにしたテレビから流れてくる天気予報の音声だけが耳に入る。用意されていたトーストをかじりながらテレビ画面を振り返れば、日本地図のあちこちに暴風雨の雨傘マークが散らばっている。
「忠、タオルと替えの靴下も持って行きなさい」
 台所から飛んできた声に返事をして、俺は熱々のホットミルクを飲みほした。近頃妙に母さんは俺にカルシウムをとりなさいって言ってくる。俺の角が乾燥気味で、表面がかさついているのを心配しているんだろう。ホットミルクは好きな方だけど、時間の限られている朝に熱々のまま出されるのは、ちょっとだけ困る。口の周りについた白いひげを舐めとりながら、
「行ってきまーす」
 傘を握りしめて家を出た。


 天気予報は午後になってから現実に変わった。雨の降りしきる音に憂鬱なのはツッキーも同じで、部活の休憩時間に重たいため息を何度もついている。疲れた様子で体育館のすみに座っているツッキーは何度もボトルに口をつけているのを見ても、今日の湿気は相当ひどい。
「うわっ月島、顔、白ッ」
 のぞきこんできた日向がツッキーに顔を近づけ、目の前にのびる細長いツッキーの角に手をかける。止めてよ、と払いのけたついでに見えたツッキーの横顔は、日向の言う通り青白くなっていた。
「ツッキー、大丈夫?途中で帰る?」
 先輩や他の部員に聞こえないように小声で聞いてみても、ツッキーは「いい」の一点張り。そうは言っても、休憩がもうすぐ終わりそうなときになっても動く気配がないのは、強がっているからなんじゃないか。心配でそわそわする俺を見て主将も菅原さんも心配そうに遠くから様子をうかがっているのが分かる。
「あの、」
 視線と口パクだけで俺がサインを出したら、すぐに菅原さんが武田先生の側に歩み寄った。体育館の向こう壁で声をかけられた武田先生と、菅原さんが交互に俺とツッキーの方を見て、何かを話している。
「月島くん」
 にこにこ笑顔を浮かべたまま歩み寄った武田先生に呼ばれて、ようやくツッキーが気だるげに顔を上げた。うつむいていた角の先に溜まった汗の滴が、角度を変えた表面を伝って根元に集まり、耳から垂れ落ちた。
「とりあえず、保健室に、熱がないかだけ確かめに行きましょう。山口くん、付き添ってくれませんか?」
 ツッキーの表情を見るなり、武田先生は柔らかい口調で、そう告げた。俺は短く返事をして、湿気で重くなった身体でその場に立ち上がった。
 心配そうに横目で見る東峰さんと、角の根元をむずがゆそうに掻いている日向と、練習が早く始まらないかと不満げにボールを床に打ち付けている影山の視線を感じながら、俺はツッキーに肩を貸して保健室に向かった。ツッキーの体は触っただけで分かるほど熱っぽくなっていて、俺はますます心配になった。保健室までは三分とかからない道のりなのに、一言も声を発しないツッキーの身体の重さに自分の身体もつられて重たくなるようだった。
「微熱ね、ちょっと休んで様子見ましょう」
 ピピピッと短く鳴った体温計の表示を見て保健室の先生は、さらっと告げた。会議があるから三十分後に戻ってくるわね、と続けた先生は、何かあったら会議室まで教えに来てねと俺に告げていなくなってしまった。出来ればツッキーの側にいたいと思ってはいたけれど、逆にそう投げやりに言われてしまったら練習に戻るわけにもいかず、俺は仕方なしにベッドの脇に置かれた丸椅子に腰かけることにした。ツッキーはぐったりとした様子で枕に頭を押し付けて横になっていた。いつもは艶のあるツッキーの角は布団の繊維くずを絡め、見るからにざらついていた。
 窓ガラスに打ち付ける雨の粒と音を感じながら、俺はむくんだ手首をいつもの癖で揉みながらぼんやりしていた。ツッキーのいる布団は一定のリズムで上下し、俺とツッキーしかいない保健室でその様子を見つめていると、自然と欠伸がこぼれ落ちる。
「ちょっと寝たら戻るから、大丈夫だけど」
 苦しげにかすれたツッキーの声がした。俺は大きく開けていた口をあわてて閉じ、目の前にあるツッキーの後ろ頭をじっと見つめた。ツッキーはそれから何も言葉を発さず、俺もツッキーの言葉を待とうとして黙り込んだ。保健室の中の空気が少しずつ重たく居心地悪くなっていくのを感じながら、先にその空気に心が折れたのは俺の方だった。
「俺も、ツッキーほどじゃないけど、実は朝から調子悪い気がしてて」
 嘘をついているわけじゃないのに、何故か申し訳なさに似た気持ちが胸の中を満たしていって、俺は途中で口をつぐんだ。ごそりと音がして、布団の中でツッキーの頭がこっちを向いていた。
「何でさっき言わないわけ」
 その目は強く俺の目を睨んでいて、でもそれが怒っているというよりも心配の色に染まっているのは明らかだった。さっき、と言うのは保健室の先生がいた時ということかな、と俺が考えている間に、俺の角に向かってツッキーの右手が延びていた。表面を撫でられた感触に、思わずドキリとする。
「クリームの塗り方が下手すぎるからでしょ」
 輪郭の形を確かめるみたいに指先でなぞりながら、ツッキーは鼻先で軽く笑った。俺はそんなツッキーの顔を見ながら、ツッキーの指の動きに意識を向けて、今ツッキーがどんな風に触っているのかを想像した。ツッキーの指は角のつけ根から、ぐるりと巻いた渦の中心に向かって縁をたどるようにして撫ぜていく。熱っぽいツッキーの指先から伝わる温度につられて少しずつ温かくなる角の感覚に、さっき消えたはずの眠気が静かに戻ってくる。気づけば指先からつま先まで、身体の方もポカポカと温かくなって、さっきまで感じていた気だるさも何故だか少し軽くなっていた。
「これで少しはマシになるはずだけど」
 疲れた様子で腕を下ろしたツッキーの顔色はさっきよりも悪くなっていた。俺は浮かれた自分を頭の中で叱りつけ、目を閉じたツッキーの横顔に向けて口を開く。
「俺も、今の、ツッキーにやってみて良いかな?」
 ツッキーは驚いた様子で一瞬俺を横目に見たけれど、断る理由が見つからなかったのか、諦めの表情を浮かべると静かにまぶたを閉じた。強く撫でないこと、強くこすらないこと、根元をつかまないこと。ツッキーはそれだけを口にすると、ほんの少しだけ、俺のいる方へと頭を傾けた。
 ツッキーに言われたことを復習しながら、俺は恐る恐る手をのばした。ツッキーの髪の毛のすき間からのびた、すらりとした長い角の根元に指をのせると、自分のとは違う感触にドキッとした。いつも触っている自分の角よりも、ツッキーの角は少しだけやわらかくて温かい。いつもこんなに温かいのか、それとも今だけなのか、すぐに聞いて確かめたい気持ちをぐっとこらえて表面に指をすべらせる。わずかな毛羽立ちはあっても、俺の角よりもツッキーの方がつるりとして滑らかなんだと分かる。枝分かれする部分のくぼみに指を添わせると、ツッキーがホッと息を吐き出した。一番短い先端を撫で、分岐の根元に戻る。先へ先へと向けて手を動かすと、青白かったツッキーの顔に少しずつ明るさが戻っていく。右の角を終えたら左の角へ、同じように手を伸ばして撫ぜていく。熱のかたまりを体から追い出すようにツッキーが深く息を吐く。
「ん、」
 眉間にシワを寄せてツッキーが発した声に俺は手をひっこめる。
「ごめんツッキー、痛かったら言って、俺不器用だから下手くそかもしれない」
「別に、ちょっとくすぐったいってだけ」
 むしろさっきより楽になってる、と告げたツッキーの言葉に俺は嬉しく思いながら、目を閉じるツッキーの角にもう一度触れた。根元から先の方へ、悪いものが流れて消えていくようにイメージしながら、何度も手を動かす。撫ぜる度にツッキーの表情は柔らかくなって、俺の心も軽くなっていく気がした。
 左と右、どちらも五回ずつ撫でたところで、もう大丈夫だとツッキーが口にした。その頬には赤みがさして、さっきより良くなっているというのは本当のことだと思えた。
「良かった、ツッキーが楽になって。俺で良かったら、いつでも手をかすから我慢しないで言って」
 布団の中から俺を見上げたツッキーは赤くなった顔をそらし、気まずそうに黙り込んだ。人を頼りたくないツッキーらしいな、なんて思っていると、廊下に続くドアが開く音がして、保健の先生が会議から戻って来た。
「月島君、どう、調子は?」
 閉じていたカーテンのすき間から覗きこんだ先生は、ツッキーの顔を見て、次に俺を見て「あら」と声を上げた。その声に促されるみたいにツッキーが急に体を起こしたかと思うと、慌ただしくベッドから出ていった。
「もう大丈夫なんで、戻ります」
 あらあら、と先生は意外そうに目を丸くすると、目の前を横切るツッキーに向かって「珍し」とつぶやいた。ツッキーは聞こえないふりで真っすぐに入り口に向かって歩き出すので、俺は慌てて立ち上がってその背中を追った。
 後で知ったことだけれど、ツッキーはいつも、マッサージが一番効果があると知りながら、保健室の先生にすらなかなか角を触らせようとはしないらしい。それというのも、俺の堅い巻き角と違って外皮の薄いツッキーの角は、浅いところに血管が走っているために、他人に触れられるとあまりのくすぐったさに鳥肌が立つという。ツッキーはその感覚を心底嫌っていて、どんなに体調が悪くなっても人にマッサージを頼むことは滅多にないどころか、我慢して我慢して我慢し続けて、もうどうしようもなくなった時にようやく頼りにする最終手段だと考えている。そんなことをこっそり保健室の先生に教えられたのは俺とツッキーが保健室に行ってから数週間が経った日のことで、その時俺はもう既に数えきれないくらいツッキーの角に触れた後だったから、保健室の先生の話が全部ウソなんじゃないかと、うすぼんやり考えたのだった。












ついったーの角の街による結果から。
・「月島蛍には重く立派なシカの角が生えていて、そこに黒曜石を飾っています。瞳は蜜柑色で髪は珈琲色。バターの香りがするカブのミルクスープが得意料理です。」
・「山口忠には羊の巻き角が生えていて、そこに琥珀を飾っています。瞳は苺色で髪はカカオ色。酒にてんで弱く、シナモンを囓りながら熱々のミルクを舐めるのが好きです。」