教室の窓から乾いた風が入ってきて、グラウンドの土の臭いや若葉の香りに混じって、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。ほとんど葉桜になってしまった校庭の景色から、目線を黒板へと戻す。英語の近藤先生は花粉症らしいくしゃみをひとつして窓際の俺のあたりを睨みつけた。といっても見ているのは俺じゃなくて、その向こうのグラウンドの一角、スギの木が並んでいる校門のあたり。俺は目を会わせないように、少しだけ視線を右にそらす。
黒板の緑を背景にしてツッキーの淡い髪の毛が目に映る。窓からのほこりを含んだ風に揺れるその髪の毛の動きにあわせて、砂でも葉っぱでもない香りが鼻に届く。ツッキーの匂い。
教室の中は窓から差し込む柔らかい春の日差しを受けて白く光っている。誰かの欠伸する声が聞こえる。近藤先生の動かすチョークの足音。俺もつられて欠伸をひとつ。時計の短針が示す午後の時刻。風向きの変わった空気の層が、誰かの置き去りにした飲みかけのジュースの匂いを運ぶ。甘い甘い苺みるくの味。ツッキーの肩が前後して、板書の内容をノートの紙面に書きつける。手を止めて、欠伸をひとつ。俺は板書を書きうつしてから、ノートのすみに小さな字で書き記す。14時23分。その横に眠たそうな表情の顔文字をひとつ。
ノートに広がる罫線の余白、そのわずかなスペースに並んだ時刻と顔文字に、俺はそっと顔を緩める。眠そうな顔、楽しそうな顔とシャープペン、イラッとした顔に上履きの絵。その時々のツッキーの様子を思い出しながら、俺はそっとツッキーの方を見た。頬杖をする後ろ姿から、その向こうの表情を想像する。
キンコンカンコン、と聞き飽きたチャイムのリズムを遠い意識で聞き流す。日直の号令、起立、礼。俺はノートを閉じて机の上を片付ける。今日は水曜日、授業はこれでおしまいだ。
「山口」
声をかけられて顔を上げると、俺の机の前にツッキーが立っていた。
「返すの、遅くなって悪かった」
差し出されたのは昨日貸していた化学のノートで、ツッキーが言うほど遅くなったとは俺には思えなかった。
「いいよ、今日は化学なかったし、全然大丈夫」
笑って受けとる俺に、ツッキーは何か言いたげな顔で口を開く。俺は何だろう、と首をかしげて待ったけれどツッキーはなかなか言ってくれなくて、そうこうしているうちに担任の前島先生が教室に入ってきて、
「おーいHR始めるぞー」
ツッキーは「何でもない」と小さく言って席に戻っていった。
HRと掃除を終えたら後は部活だけ。教室の掃除を終えた俺たちは鞄を背負って教室を出る。廊下を歩いていると、隣の教室や階段前ではまだ掃除をやっていて、それなのに遠くのグラウンドの方では運動部の声が聞こえはじめている。
「ツッキー、今日の練習なんだろうね」
俺が話しかけると、半歩先を歩くツッキーがちらっとこっちを見て「さぁ?」とつぶやく。
「帰りに坂ノ下でジュース買ってから帰ろっか」
ツッキーが好きな、白と赤の描かれたパックの苺オ・レ。俺は売り切れじゃなかったらコーヒー牛乳にしようかな。
廊下の窓から体育館の屋根が見えたとき、
「そんなの部活終わったときの話でしょ、気が早すぎ」
呆れたようなツッキーの声がした。俺は体育館への渡り廊下をツッキーの後をついていきながら「そうだね」と笑った。
グラウンドを越えて吹いてきた風が俺たちのジャージのすそをふくらませる。温い空気に心が緩む。鼻の奥に蘇る甘い匂い。
「そうだ、そういえばツッキーさっき俺に何か言いかけたよね?」
部室に向かおうとするツッキーが「あぁ」と思い出した調子で口にした。
「ノート」
え、と目を見開いた俺の隣でツッキーが足を止める。
「余計なこと書いておくと、提出する時に困ると思うけど?」
「あれっ、化学のノート提出あったっけ?俺聞き逃したかなー」
数週間前の授業ガイダンスを思い返しながら頭をかく。
「いつ提出だっけ?中間より前?」
「別に提出とかは無いけど」
あれ、と違和感が芽生えて俺は頭をかいていた右手を下ろす。
「そうじゃなくて、別の誰かが見たら、何かと思うメモ書きをノートに残しておくなよ、って話」
もどかしい様子で俺を見るツッキーの顔は何となく赤らんでいた。その色に、俺はようやくその意図を察して、俺もつられて顔の両頬が熱くなった。化学のノートの余白にも、俺はずっとツッキーの行動記録を残している。ツッキーにノートを貸すなんて想定してなかった俺の、不注意。ツッキーが休んだ日の分を貸すなんて当たり前の出来事なのに、それすら俺は考えてもいなかった。
ごめん、と言った俺は、それ以上何を口にしたら良いか分からなくて、赤くなった顔を必死にツッキーからそらすことしか出来なかった。温い風が吹いて、遠くの音楽室の吹奏楽部の合奏の音が聞こえてくる。
別にいいけど、と囁くようなツッキーの声がする。
「こっちも山口の行動記録してるから」
えっ、と顔を上げた俺を見て、ツッキーは意地悪そうに笑った。
「嘘だけど」
俺の目を1秒見つめたツッキーが歩き出す。俺は戸惑いながらホッとして、ツッキーの後を追う。自販機の前を通りすぎながら、苺みるくの下に点灯した売り切れの文字に放課後を思う。坂ノ下で売り切れてなければいいのだけれど。
部室棟に近づいた時、ちらっと俺を見たツッキーが言った。
「さっきの、嘘って言ったのが嘘、って言ってたら、どうしてた?」
青い草の臭いを含んだ風がツッキーの髮を揺らして、またあの甘い匂いが俺の鼻先をくすぐった。ああ、恋をしている、と俺はぼんやりと思った。