これでいい。視界の端で震える山口の指先を見やってから、目を閉じた。消毒のために用意したアルコールのツンとした匂いが鼻の奥を刺激する。耳たぶのふちに添えられた山口の人さし指から細かな震えが伝わってきて、触れている一点だけがひどく熱を持っている。
 真っ暗な闇に包まれた瞼の中の世界には、ひどくゆっくりとした心臓の鼓動が一定のリズムで響いている。はじめにこの情景を描いたときには揺らいだはずの心は、何故か今になって落ち着き払っていた。不思議だ、と思うと同時に、それもそうか、とも思う。これは自分と山口における証明なのだ。
 耳たぶに固いものが触れる。ごめん、と山口が短く告げる。山口の手の中にあるピアッサーが、山口の震えによって耳に触れただけのことなのに、その手元から滲み出る緊張の色が一段と濃くなる。山口の指先の動きを促す言葉を口にしようかと唇を開きかけ、一瞬躊躇して止めることにする。こちらは促したつもりでも、急かされたと勘違いしてさらに指先を震わせてしまうのが山口なのだ。ならば黙って、ただじっとその瞬間を待つ方が良いのかもしれない。
 薄く開いた瞼の隙間から、世界をのぞき見る。手の中にある鏡には、自分の耳たぶにピアッサーを構えている山口の手元が少しだけ映り込んでいた。今は山口の手で隠されて鏡にも映らないが、そこには油性ペンでつけた小さな点が、ぽつりとひとつあるはずだ。鏡を見ながらつけたそれは耳たぶの下の方、もっともふくらんだ曲線の頂点に印されている。山口と二人で確認しながら慎重につけた目印だ、間違っているなんてことはない。
 指先にほんの少し力をこめて鏡の角度を変化させる。手元から少し離れたところ、ひどく顔の筋肉をこわばらせた山口の横顔が鏡の中へ入り込んでくる。唇は歪み、目は不器用に細められ、頬は硬直してわずかにせりあがっている。
 なんて顔をしているんだ、と思う。
 その反面、頭の中に思い描いていたものと大きな差がないことに、心の奥の小さな部分がほころんでいく。そうだ、その顔が見たかったのだ。
 今まさに自分の胸を満たそうとしているこの感情を分類するなら「喜び」に該当するだろう。それが決して純粋なものではなく、どこか歪であることは、ずいぶん前から気づかされていた。人間の感情がすべて単純に喜怒哀楽で説明できたのなら、僕も山口も、こんな風に苦しむことはなかっただろう。特に山口は、もっとほかの方法で僕を引き留めることが出来たに違いないのに、よりにもよって、恋愛感情という厄介なものに結論を見出してしまったがために、こんな苦痛を体験しなければならなくなった。
 いや、正しくは苦痛を味わうことなく済ませることなど出来ないと僕が判断し、提案をしたのだが、そんなことはどうでもいい。大事なのはきっかけを作りだしたのも、そうなるように自らを追い詰めたのも山口だったという、ただそれだけのこと。
 歪んだ山口の表情を見つめているうちに、鏡の中に映る自分の口角が知らぬ間に左右へと引き上げられていることに気が付いた。幸い山口は自分のことで精いっぱいの様子で、こちらの変化に気づいてはいない。もしその指先に力をこめたその後、一体山口はどんな顔をするだろう。後悔だろうか。それとも達成感だろうか。
“ツッキーは俺のこと、忘れてくれても良いよ”
 つい数時間前に告げられた山口の言葉が耳の奥にこびりついている。卒業証書を手に振り返ったその表情は寂しさをまとっているのかと思いきや、妙に晴れわたっていた。その数分前には泣きそうな顔で、最後だからと隠していたという想いを告げてきたというのに、その瞬間だけは違和感さえ覚えるほどスッキリとした顔をしていた。それがひどく癪に障った。言い逃げの形で終わりにするつもりなのか、こちらの感情は見て見ぬふりをするのか。そんなの、許せるわけがない。だから自分は、反射的に告げたのだ。
 忘れられるわけがないし、忘れるつもりもない、と。
 笑っていた山口の顔は一瞬で曇り、戸惑いの色を見せた。その変化は心地いいものだった。やっぱりな、と一種の優越感が胸にこみ上げた。だから耐え切れずに、こう続けたのだ。
 山口こそ忘れて無かったことにしないよう、責任をとるまで残る証拠を形にしなければならない、と。
 すぐに近くの薬局でピアッサーと消毒薬を買った。山口は始終何かを言いたげな顔をしていたが、特に止めることもなくこちらの言う事をいつも以上に聞き入れて行動に移した。アルコールを含ませたティッシュペーパーで耳たぶを消毒し、細いペン先の油性マジックで目印をつけた。今日で高校は卒業する。校則なんてものは、もう無意味になる。ファーストピアスはシンプルなシルバーの、もっとも太い軸のものを選んだ。痛みは、より強い方が良いと思った。山口と過ごす高校生活の最後の日を、一生忘れぬよう心に刻みつけなければいけないと、そんな安いドラマの最終回のようなことを心のどこかで思っていたのかもしれない。
「痛かったら、ごめん」
 震えた山口の声が耳元でささやいた。ざわり、と別の意味で震えそうになる体を必死に抑えつけ、鏡越しに視線だけを山口へと向ける。
「いいから、それより早くしてよ」
 うん、とうなづいた山口の、ごくりと生唾を飲み込む音が鼓膜を震わせた。山口とこの距離で過ごすのは初めてかもしれない。全てが伝わりそうな距離の中で、心臓の音がひとつ、またひとつと冷静に同じリズムで刻まれていく。
「本当に、いいの」
 さわり、と窓から入ってきた風は冬の名残で冷たさを残しつつも、やはりどこか春のにおいを含んでいる。山口と迎える春は、これが最後かもしれない。
「いいから」
 どんどん美しさや整合性からかけ離れていく山口の顔が、不意にまとまりを取り戻し始めた。かと思ったところで、深く息を吸い込んだ山口が浅い息を吐き出し、そっと、
「じゃあ、いくよ」
 鏡の中に映る山口の目に強い決意が宿ったように見えた。ぐっとその指先に力が込められた瞬間、バチンと大きくバネの縮む音が耳元で鳴り響いた。何かの音に似ている、と思いながら、ピアッサーの本体を耳から遠ざける山口の指を鏡越しに見つめる。想像していたよりも呆気ない一秒の過程に物足りなさを抱いたところで、じん、と耳が熱くなるのが分かった。体中の血液が少しずつその一点に集まりだして熱を増幅させていくような錯覚が体中を満たしていく。じん、じん、と鼓動に合わせて新たに体に響き始めたリズムは、ひっそりとした痛みを伴って続いていく。鏡に映した耳たぶに、ぽつりと小さくつけられた銀色の点が、西日を受けてきらりと光った。
 これでいい。
 心配そうにこちらの顔をのぞきこむ山口の顔を見て、改めてそう思った。自分のしたことがなんだったのか、好きだと告げた自分の言葉の意味がなんだったか、山口自身これで忘れることはないだろう。離れ離れになった後も、山口と会うたびこの銀色の光が今日のことを思い出させるに違いない。お人よしの山口が責任を取らず、このまま逃げるなんてことはきっと出来やしない。
 左耳の熱に目を細め、そっと人さし指と中指で触れてみる。自分の耳たぶに貫通した固い金属の物体は肉の間にめり込んで、わずかな血で汚れていた。トップの突起を指先でつまんでみる。耳を覆っている熱がさらに高まり、しびれるような痛みが膨らむ。
「触ったら痛いよ」
 独り言のように告げる山口を一瞥したが、気にせずつまんだ金属をわずかに回転させる。びりり、と今までとは比べようのない強い痛みが耳から首元へと走る。指先に伝わった、ぬるり、とした感触に違和感を覚えて指先を見れば、どろりとした血で爪の隙間が赤く染まっていた。
 驚いた様子でアルコールのついたティッシュを山口が手渡してくる。後悔と動揺と、理由の推し量れない高揚に満ちた山口の表情を見て、ひどく気分が良くなった。
「痛みにしたら、これくらいってことだから」
 何のことか分からない、といった様子で山口が首を傾げた。自分でも遠まわしな表現だと思いつつも、訂正する気はまったく起きなかった。むしろその意味を見つけるために、山口が一分一秒でも長く頭を悩ませてこれからを過ごしていけば良いのに、と思った。
 ピアッサーの残骸をゴミ箱へと放り込みながら、さっき抱いた既視感の正体に気が付いた。ピアッサーの音は、ホッチキスに似ている、と。耳元に留めた金属の欠片で山口との思い出も一緒に綴じこんでしまえたら良かったのにと、そんな馬鹿げたことすら考えてしまっていた。
 こちらが提案してやらせたことだというのに、山口はひどく落ち込んだ顔をして、普段からは信じられないほど無口になっていた。きっとその心の中は罪悪感でいっぱいになっているだろう。計算通りだ。
 じん、と鼓動に合わせて耳たぶに痛みが走る。胸に残る痛みが耳の痛みでかき消されるのを願い、指先で触れてみる。強い痛みが神経を走り抜け、痛んでいた胸を満足感が満たしていく。これでいい。山口には気づかれぬよう、顔を背けてほくそ笑む。これからこの小さな金属に触れるたび、今日という日を忘れてしまうこともない。不必要な痛みを掻き消すことも出来る。これさえあれば、大丈夫。
 この痛みが消えた時、もし山口と自分の関係に一縷の望みが残されていたとしたら、その時は、真実を打ち明けても良いのかもしれない。
 山口はひどくおびえた調子で別れ際、こう尋ねてきた。
「本当に、良かったの?」
 だから僕は本心を告げるのをぐっとこらえて、こう返した。
「そう思うなら、自分はどうすれば良かったのか、お前が見つけた答えを今度聞かせてよ」
 それは今の自分にできる、めいっぱいのわがままに違いなかった。
 山口がその意味に気付いたかどうかについては、答えを聞くその時まで保留にしておこう、自分の耳に増えた飾りの代わりに、山口の胸にもしっかりと何かを刻むことには成功しているはずだから。
 熱を持った耳たぶに意識を向けながら、遠ざかる背中を普段の何倍も長く見送った。