家のドアを開けると、いつも夢から覚めたような気持ちになるのは何でだろう。
 つい数分前まで並んで歩いて、時間からも世界からも切り離されたみたいに体が軽くなって、ふわふわとしていたのに、家の玄関マットを踏むと途端に体が重くなる。靴下を脱ぐために屈んだ肩から重たいスポーツバッグがずり落ちてくる。バランスを崩して転びそうになるのをなんとかこらえてリビングのドアを潜り抜けた。
 リビングの椅子に倒れこむように座りながら、引きずっていた鞄をフローリングの上に置く。何も考えずにテーブルの上に顔を押し付けて脱力してから、左手に脱いだ靴下を持ったままでいることに気が付いた。まぁいいや。ため息と一緒に疲れ≠吐き出す。重たい瞼を閉じる。目の奥がジン、と熱くなる。
 もう何もしたくない、と思っているところに、夕飯の支度をするお母さんの文句が聞こえてくる。シャワー浴びてきたら、洗濯物早く出して、その間にご飯できるから。いつもの決まったフレーズに、今日も家に帰ってきたんだと実感する。ツッキーは今頃何をしてるんだろう。俺と違ってグダグダせずにもうシャワーを浴び終えて、夕飯を食べようとしているところかもしれない。そんなことを思っていたら、少し回復した脳みそが、つけっ放しのテレビ番組の音声を聞き取った。
 最近注目のファッションは、ショップは、商品は、なんて紹介している画面に顔を向ける。いくつかの項目と一緒に「今の高校生なら皆知ってる」というテロップが出ているけれど、正直俺はひとつも知らないし聞いたこともない。東京の高校生がそうだとしても、こんな田舎の高校生にも当てはまるわけがない。でも、もしかしてツッキーだったら知ってるかもしれない。ツッキーはオシャレだし、俺の知らないことをたくさん知ってる。
 今日だって、休み時間にツッキーがヘッドホンで聞いている曲が知りたくてウォークマンの画面を覗き込んだけど、読み方もわからないアーティスト名だった。そういえばツッキーが最近買ったスニーカーも、俺が見たことのないオシャレなやつで、ツッキー本人に聞いたら「通販で買った」って言ってた。気になって検索してみたけれど、結局わからないままだ。
 テレビ画面に映った厚底のさえないスニーカーを見て、俺はツッキーが選んだあのスニーカーの方がよっぽどカッコいいなと思った。今一番キてる、とかつけまつげをつけた女子高生が街頭インタビューで言ってるけれど、俺にはそうは見えない。百歩譲ってツッキーだったらオシャレにはきこなすかもしれないけれど、その靴自体が良いことにはならない。
 ツッキーが着ているカーディガンは見たことのないマークのブランドだし、眼鏡のフレームだって外国のデザイナーが作ったものだって聞いたことがあるけれど、テレビで見たことはない。ツッキーが見ている雑誌だったり、教えてもらったサイトの画面にしか出てこないそれらは、なんだか特別な気がする。普通の人が目にしない場所にしか出てこない、いや、映し出されないものはどこか格好良い。そんなものを使いこなして身に着けるツッキーは誰よりも格好良い。
 誰にでも使いこなせるものしか映さないテレビ画面から目をそらす。ツッキーの心を動かすような特別なものは、この画面の中には現れない。ツッキーのことを知るには、ツッキーに教えてもらうしかない。それ以外は、ほんの一瞬、ツッキーのまつ毛がほんの少し揺れるその時を、隣で見つけるしかない。微笑むかわりに唇の端が緩んで目じりのまつ毛が少し動く、それがツッキーの機嫌がいい証拠。じっと見つめたらツッキーは嫌そうな顔をするから、本当に短い一瞬を何度も積み重ねるように俺はツッキーを見上げる。決して目が合わないよう、それだけに気をつけながら。
 閉じた瞼の裏に浮かび上がるツッキーの横顔に、心の奥が柔らかくなって、次第に熱くなって痛くなる。別れて三十分も経っていないのに、早く明日が来ないかなと思う。まつ毛の一本ですらはっきり覚えているその姿が、目に焼き付けた幻だって分かっているからこそ、本物に会いたくなる。そんなことを告げたらツッキーは怒るにきまっている。俺のことを嫌いになってもおかしくなんかない。
 開いたメールボックスの最新メッセージは昨日の夜中のツッキーからのおやすみだった。そのメールの返信ボタンを押して、ツッキーからの4文字を消す。真っ白になった本文ボックスになんて打ち込もうか考えようとするけれど、うまく言葉が出てこない。
月島、三組の女子とデートしてるの見たけど、あの二人付き合ってるの?
 今日耳にした女子の声が再生される。そんなわけはないと思ったけれど、ツッキーのことだから誰にも言わずに隠そうとしても変な話じゃないとも思った。
 誰も知らないツッキーのことを知っているのは俺だけだと思っていた。そんなことを保証するものなんて、どこにもないのに。どこか安心していた自分がいたことに気が付いた。ツッキーにその時が来たら俺が一番最初に知る、その特別さで自分は納得できるって思い込んでいた。唯一の相談相手、話し相手でいられれば良いんだ、って思っていたけれど。現実はうまくいかないみたいだ。
 笑って聞けばよかったのかもしれないけど、俺は結局いつも≠守ることで精いっぱいだった。ツッキーの隣にいる居心地のよさだとか、楽しさを感じながら、沈んでいる気持ちとは反対に自分でも訳が分からないまま笑っていた。自分からわざわざこの場所をなくすことはないんだ、ってそう思った。俺の知らないところでツッキーの隣に誰かがいたとしても、ツッキーと一緒にいるとき隣りに俺がいられるなら、今までと何も変わらずにいられるなら、それでいい。
 途中まで打ち込んだ、重たい言葉の文字列を消去する。メールの本文には、「明日までの宿題ってなんだっけ」これだけ。これだけで充分。明日までの宿題なんて数学の小問しかないって、ちゃんとわかっているけど、俺は送信ボタンをそっと押した。
 テレビ番組は続けて、女子高生に人気のおまじないを紹介していた。ピンク色の待ち受けが表示されたスマホを片手にした高校生カップルが、手をつないでインタビューに答えている。
「告る前に、神様お願い≠チて十回唱えたら、オッケーでした!」
 嬉しそうに話す女の子に、いいなぁと思った。「告る」という単語の軽さに、笑いがこぼれ落ちた。神様なんて最初から助けてくれそうにもない。男同士の恋愛を応援する神様なんて聞いたことがない。神様を味方にできる女の子が羨ましいと思った。
 手の中で着信メロディが鳴る。新着メール一件。もちろんツッキーから。
「数学の教科書32ページの練習問題」
 たったそれだけのメッセージだったけど、帰ったばっかりで疲れているツッキーが俺のために返信してくれたんだって思うと妙にうれしくて涙が出た。俺もツッキーも変わらないし、変わらないままで良い。
 明日ツッキーに会ったら何の話をしようか。さっき見たスニーカーのことを知ってるかツッキーに聞いてみようか、東京ではカフェラテアートが人気だとか、今度一緒にパンケーキを食べに行こうとか、何でもいいから1個でもツッキーが喜ぶような話ができたらいい。
 ツッキーの隣りにいるだけで俺は幸せで、楽しくて、他の余計なことなんて考えなくて済むから。だから早く、明日の朝にならないかな。明日はいつもより10分早く待ち合わせ場所に着こう。そうしたら、一人で歩いてくるツッキーのことをより長く見つめていられるから。
 ありがとう、と返信をしてから俺は明日のためにシャワーを浴びようと起き上がった。すぐにツッキーから「おやすみ」の返信が来て、ますます俺は泣き笑いを浮かべた。