胸の中にうずまく重たい空気を口から吐き出す。はるか遠くに感じる我が家へとつづくアパートの階段を、一つ上る。あと数段これをくり返して見慣れたあのドアを開ければ、今頃、ひと足早く帰っている西谷が夕飯の支度をしてくれているだろう。どんなに遅くとも、いつも西谷は八時には家にいてくれる。どちらか先に家に帰ってきた方が、その日の夕飯を準備する。それが、俺と西谷が一緒に暮らすにあたって初めて交わした約束だった。最近はもっぱら、こっちの帰りが遅くなるばかりで、俺が夕飯を用意するのは久しくなっている。ひどく西谷に申し訳ないことをしている、と思う。
 もうひとつ大きなため息を出す。くたびれたスーツの裾にしわが出来ているのを見つける。ああ、この前アイロンをかけてもらったばかりだというのに、もうしわくちゃになっている。きっと西谷がこれを見つけたら、笑って“仕方ないっすねぇ”とわざとらしく言うだろう。いつも俺の知らぬ間にしてくれるその気遣いすら、大切にしてあげられていない。
 またひとつため息を。階段に乗り上げた片足がひどく重く感じる。下段に残したもう片方の足を引き揚げながら目を閉じれば、まぶたの裏に仕事相手の怪訝な表情が浮かびあがってくる。思わず出るのは、ため息ばかり。
 “旭さんの仕事が大変なときくらい、俺が支えるのは当然じゃないですか。そう思うなら、その分、頑張って仕事してきてくださいよ”
 以前、西谷に申し訳なく思っている気持ちを告げた際に返された言葉だった。あの時は、西谷の言葉にホッとして、そのあとちょっとだけ実績を残すことが出来たのだけれども。
 まぶたの裏にこびりついた記憶に胸の奥が澱んでくる。今回のアクシデントは単純に俺のミスが原因だった。会社の上司にも同僚にも大きな迷惑をかけた。せっかく西谷が俺のためにと言ってくれたのに、俺は自分のするべきことすら全うできずにいる。ひどく情けない。
 目の前に現れた鉄の扉に、最後のため息をひとつ。このまま帰らなければ、心配をかけるだろう。迷惑の上に心配を重ねるわけにもいかない。俺は小さな覚悟をひとつして、その重たい鉄の扉を押し開けた。
 部屋の中から西谷の小さな声がして、騒がしい足音が数歩かけよって目の前で止まる。顔をうつむけて足元を見つめながら一歩、部屋の中へ入る。
「旭さん、お疲れ様っす、お風呂にしますか、それとも腹減ってますか」
 いつもの西谷の明るい声が、俺の罪悪感をふくらませる。視界のはしっこに映りこむ裸の足を、ちらっと盗み見る。俺より小さな、見慣れた足だ。昼間の練習試合で酷使されて疲れているだろうその足が、落ち着きなく指先を動かした。きっと俺の様子をうかがっているだろう。
 顔を上げる気になれなくて、俺はそのまま目の前にあるだろう西谷の身体に頭からもたれかかった。その肩に頭がぶつかったとき、ぽすん、と情けない音がした。俺はうつむいたまま唇を強く噛んだ。
 いつもだったらこういう時、“どうしたんすか”“具合でも悪いんですか”と西谷は言ってくれるけれど、今日に限っては、黙ってその場に立ったままでいた。どうしたんだろうか、と俺の方が思いはじめたころ、ぐいっと頭を左右から捕まれ強引に上を向かせられ、スーツの生地の肩のあたりをわしづかみにされて、そのまま居間の方へと引っぱられた。あわてて足先だけで靴を脱ぎ捨て、短い廊下をもたつく足でたどっていく。振り回されるように離された手が俺の肩を上から押しつけ、居間のテーブルの前へと座らされる。
「先に飯にしましょう、ちょっと待っててください」
 背を向けた西谷があわただしく居間と台所を往復し始める。だん、だんっ、と荒々しくテーブルの上に料理ののった皿を運んでは置き、俺の前に並べていく。そうして六往復をした西谷によって目の前にそろえられた今夜の夕飯を見て、俺はそれらが自分の好物ばかりであることに気が付いた。
「腹が減ってるから元気が出ないんす、さっさと食べて、そのあといくらでも弱音を聞きますから、今はとにかく食べましょう、ね、旭さん」
 目頭が熱くなった俺の向かいに座りこんで、西谷は箸を持ったまま、「いただきます」と両手を合わせてから食べ始めた。
 俺はぎゅっと唇を噛んで、そんな西谷のことを見ていたが、涙でうるんだ視界はすぐに滲んでしまった。
 なかなか食べ始めない俺のことを、ちらっと盗み見た西谷は、全てを見透かしたようにニヤッと笑うなり、
「旭さん、俺、伊達に五年以上旭さんに惚れてるわけじゃないですからね」
 と、そんなことを言ったのだった。