「やっぱり、トムは違うなぁ」
風呂上がりにリビングへ戻ると、テレビ画面を前にしたソファに腰かけた山口が、感心した様子の独り言を漏らした。見れば画面には、見覚えのある映画のワンシーンが映し出され、主演のハリウッド俳優がスパイとして天井から垂らしたワイヤーロープに身体を吊るしている真っ最中だった。そういえば来週あたりから、このスパイ映画の最新作が映画館で公開になるらしいから、それに合わせて過去作をTV放映している、というところなのだろう。
洗いざらしの髪の水分をバスタオルで拭いながら、画面に見入っている山口の隣に腰かける。
「あれ、すごい難しいのに、絡まったりしないで上手く使いこなしてるの、ホントすごいよね」
目線を合わせてきた山口に話しかけられ、曖昧に、適当なあいづちを返す。
「あのワイヤーの留め具、身体につける方のやつ、締め付けとかすごいのに」
再び画面に向き直った山口の横顔を目にしながら、ああ、きっと、その頭の中は、いつぞやの博物館に潜入した日の夜のことを思い返しているのだろうな、と察しがついた。あの時、山口はワイヤーロープを操作するどころか、道具に遊ばれるようにして天井から吊るされたまま、めちゃくちゃに絡まったそれの中で縛り上げられるような形で身動き一つとれない状態にまで、なっていたっけ。
遠い記憶を呼び起こすと同時に、鼻先から笑いが漏れる。
「あ、ツッキー今、笑った? 笑ったよね?」
その気配を聞きつけた山口がムッとしながら、もう一度こちらを振り返った。
「いや、だって、あれは、……どこをどうしたら、あんな風にまで、絡まりまくるわけ?」
話しながら頭にあの時の光景が浮かぶと、どうしても笑いが込み上げて仕方がなかった。そんな僕の様子を目にした山口は、ムムッとさらに眉間にシワを寄せ、必死になって弁明をしようとする。
「あの操作、めちゃくちゃ難しくて、絡まらない方が不思議なくらいで、そうじゃなくても、身体のあちこちにめちゃくちゃ食い込んできて、すっごく痛いんだよ」
「え、でも、真っすぐ下りれば、そんな我慢できないほどじゃ、」
「もう、つけてるだけで、重力が、足の付け根とか、ちんこのあたり、玉がギュって締め付けらそうになって、あと一歩で拷問か、ってくらい、」
「ないない、そんな下手なつけ方してたから絡まって動けなくなったんじゃないの?」
おかしさに顔をしかめる自分を前に、不意に山口が口を閉ざした。じっ、と僕の顔を見つめ、どうしてツッキーはそこまで知っているんだろう、という目をしたまま首を傾げている。
「ツッキー、アレ、つけてみたこと、あったりする?」
まずい、と思いながら、とっさに、
「いや、そんなの、見てれば分かるから、それくらいのことは想像しただけで、充分、」
ああ、と目を見開いた山口が、納得した様子で息を吸う。
「そう言うけど、案外、アレ、着けるのも操作するのも、むちゃくちゃ難しいんだから」
ツッキーは知らないだろうけれど。そう言いたげな口ぶりでテレビ画面に目線を戻した山口の横顔を前にして、こっそり、山口には決して気づかれないよう、僕は安堵の息を吐く。いけない、いけない、と胸の内で自らに言い聞かせる。
山口が疑う気配も無いから良いものの、これ以上、あの日のことに触れるのは避けておくべきだろう。うっかり山口が本当のことに感づいてしまわないように。
「やっぱりプロのスパイは、格が違うなぁ」
映画に意識を集中しなおした山口が漏らす声はあまりにも平穏で、間延びした響きに、目を細める。もちろん、これも隣にいる山口には絶対に気づかれない程度の密やかさで、日常に揺蕩う平和の温もりに、僕は意識して、幸せの息を吐いていく。