もうひとつの「こじらせ系男子月島蛍」
いつ自分がこの感情を抱くようになったのか、今となってはハッキリ覚えてはいない。ただ、その感情に気づかされたときの自分は、世間一般で言われるような淡い期待や激しい焦燥感に包まれるのではなく、どちらかといえば底のない絶望の淵に立たされているかのような、混沌とし陰鬱とした気持ちに満たされていた。世間一般で言われる恋というものが、僕にとっては、途方もなく深い絶望と混乱をもたらす感情でしかなかった。
自分は幼なじみである山口のことを友達以上の『何か』として認識している。その事実に気づかされたのは小学校の終わりの頃、山口を含め当時よく行動を一緒にしていた男友達が発した、ほんの些細な一言がきっかけだった。
「男同士でベタベタするなんて気持ち悪ぃ、お前らホモなんじゃねぇの」
クラスの中のとある男子二人組に向け、その言葉は、妙に大きな声で発せられた。それが、普段からよく行動と一緒にする二人組に対し投げかけられたものだと分かるなり、その場にいたクラスメイトたちから笑い声が起こった。人をからかう時のあの色調の笑い声と、指を差す動作は、連鎖反応のように一瞬で教室の中を満たしていった。ある種テンプレートと化しているそのフレーズを冗談やからかいではなく本気にする人間がいるはずもなく、皆が皆、同じような表情を浮かべ、笑い合っていた。
唯一、笑っていなかったのは僕と山口くらいで、その異様な空気にお互い首をかしげ、しばらくの間、眉をひそめていた。当時の僕たちはその笑いの意味を理解などしていなかった。なぜなら、その二人組より、よっぽど僕と山口の方が四六時中どこに行くにも一緒に行動していたからだ。どうして仲の良い友達同士が一緒にいるだけで笑われなければならないのか、そしてそれがどうして僕らではなく、彼らだったのか。あれから時間が経った今ならば、なんとなく理由も分からなくはない。きっと、僕と山口では、冗談にしきれなくなるのでは、とクラスメイト達も無意識の領域で感じ取っていたのではないか。そう、当時の僕も気付けていなかった、僕の中のこの感情というものが、それをもたらしていたのではないか。
「ねぇツッキー、ホモって何? ツッキーは知ってる? それって気持ち悪いものなの?」
教室に満ち溢れたバカ騒ぎのような笑い声の中で、山口が首をかしげながら僕に尋ねてきた。その問いを投げかけられた瞬間、僕の中の奥の方にある何かが、明らかに傷つけられ、壊れていくのを感じとっていた。きっと、山口も、いつか僕のことを、気持ち悪い、と感じる日が来るのかもしれない。
目の前でまだ続いているクラスメイトたちの笑い声を耳にしながら、同性愛に対する世間の厳しさというものを、生まれて初めて見せつけられていた。どうやら、男同士が一緒にいることは、他の人にとっては可笑しいことで、面と向かって笑っても許されるくらいの異常なことらしい。その事実に気づかされて初めて、僕は自分の中にある、山口に対して抱いているこの感情の端っこに手の先がかすめていったような、そんな錯覚を抱いていた。ずっと気づかなかった、いや、気づこうとしていなかったその感情は、確かに僕の中に既に存在していた。僕は頭を振り、初めて自分の意志で、その感情に見て見ぬふりをした。
「さぁ、よく分からないけど、気持ち悪いものなんじゃないの、皆がそう言うんだから」
そんな風にやりすごすためだけの答えを発した僕の目を、山口はじいっと見つめていた。じわりと広がる冷や汗を感じた頃、そっか、とつぶやくなり山口は、曖昧に受け流すかのように、そっと何度もうなづきをし、それ以上なにも聞いては来なかった。
その日を境に、僕はインターネットをつかって、同性愛というものについて調べるようになっていた。親の目を盗みながら家にあるパソコンに触れることは、最初はドキドキして仕方のないことだったけれど、ひと月と経たないうちに、その感覚にも次第に慣れていった。履歴を残さない検索の仕方も、キャッシュの削除の方法も、すべてインターネットの知識から身に着けた上で僕は、広すぎる情報の海を渡っていった。
好奇心に導かれるままに調べていくほど、僕は自分の中にあるこの感情の正体を少しずつ理解し、そして嫌悪していった。男同士の恋愛について知る行為は、男同士の性行為の仕方について知ることとほぼ同じことだった。その現実を知れば知るほど自分の中の好奇心は増幅していき、それに伴って、僕の中にあるその欲求が、誰でもない、山口を対象としている現実に、僕は深い絶望を抱いていった。これほど羞恥に満ちて醜く膨らみきった動物的な欲望を、僕は幼なじみである山口に対して向けている。それは山口本人を傷つけ、汚していくことに違いない。その現実に気づかされていくほどに、僕は僕の中にある感情を必死に打ち消そうとしていった。
その抑圧は、実質、逆効果だったのかもしれない。僕は知識として性欲を理解していくにつれて、本能としてどうにも我慢できない強い欲を持て余すようになっていった。体の中に渦巻く渇望を治めるために何をすべきなのか。その手段を、その方法を、その頃の僕は、すでに十分、知りつくしてしまっていた。
ペニスを刺激してのマスターベーションも、後孔を刺激しての快感さえも、全て僕はインターネットから得た情報を元に、ひとつずつ、自分の身体で試していった。それまでに見聞きした方法を現実の自分の身体で試していくことは、まるで理科の実験のようだと思っていた。予測通りの反応と感覚が自分の身体で起こるたび、僕は決まって、強い安堵を抱いていた。僕は僕自身の欲を僕一人の身体だけで解決させられる。それは非常に大きな発見だった。こうして自分の手でコントロールさえ出来ていくならば、僕の中のこの欲と山口の存在を切り離すことだって可能となるはずだ。今思えば、そんな仮説が、当時の僕に唯一の望みに似たものを与えてくれていたのかもしれない。
だが、やっと得られた安息の日々も、そう長くは続いてくれなかった。自分の欲を飼い慣らそうとすればするほど、僕は次第に、言いようのない深い喪失を抱くようになっていった。自分の奥にある何かが削られ、見えないどこかに溶けていき、影も形もなく失われ、消えていく。その感覚に、僕は新たな不安の形を覚えていた。性的に満たされた身体の中で日に日に膨らんでいく空洞、そのぽっかりと空いた場所を満たすには、何が必要で、今の自分に何が足りていないのか。今度はそれを求める日々が始まった。落ち着いて考えればそれが何なのか、無意識に僕は答えを知っている、そんな予感も頭のどこか奥の方で芽生えてはいた。だが認めたくないものを受け止めるほど僕は器用ではなかった。僕自身、その答えから目を背けようと必死にあらがっているような、そんな予感すらも同時に感じ取っていた。
そうやって見えない何かと闘い続けた結果、中学生になる頃、僕は実際ホモと自称している大人に会ってみたい、と考えるようになっていた。当時、まだマッチングアプリの広まっていなかった時代に、そういった人間が集まる交流のツールとして主だったものは、ネットの掲示板だった。長い間、情報収集のためにそこで繰り広げられていく人間関係をただ外から眺めていたはずの僕は、気づけばそこに書き込む側の人間として存在するようになっていた。
『十三歳、中学一年、男同士の関係に興味があります。詳しいことを教えてくれる人を募集してます。会って話を聞かせてほしいです。よろしくおねがいします』
知らない大人と会うのは、何も難しいことではなかった。指定されたコーヒーチェーン店に言われた通りの時刻に合わせて入店し、前もって聞かされていた、指定の場所に座っている人物の向かいの席に黙って腰を下ろす。ただ、それだけでよかった。
「君、好きな男でもいるんだろ?」
初めて会った相手に、開口一番、そう尋ねられ、ドキリとした。
「いえ、違います。ただ、興味があるだけです」
とっさに答えた僕を見つめ、ふぅん、と言った相手が、自分より十も歳の離れた大人であることを、そのとき改めて実感していた。その人はそれ以上、こちらのことについて深く掘り下げてくる様子もなく、淡々と僕の出した質問に対する答えについて、丁寧に語ってくれた。たしか、同性愛者であることを誰かに話したことはあるか、実際好きだと思う相手と付き合えたことはあるのか、そんな内容の質問だったかと思う。その人は悩む様子もなく、慣れた調子で、自分のことを包み隠さず語ってくれた。
過去にカミングアウトをしたことは一度もなく、片思いの相手はいつも異性愛者で、相手に対し自分の気持ちを伝えたこともない、親はそういったことに関してひどく潔癖で、話そうと思ったことも理解を求めようとしたこともない、自分が同性愛者であると気づかれそうになる度、転職を繰り返しては人間関係をリセットし続けてきた、だから誰かと付き合ったことも、肉体関係をもった経験もない……そんな話を、三十分くらいかけて聞かせてもらった。たかが好奇心に駆られた中学生相手に、その人はとても真摯に話してくれたのだと思う。
「僕らはね、普通じゃないんだ。誰かにそれを知られて、普通の生活が出来るなんて思ってもいないんだよ」
話の結びとして相手が口にしたその一言に、僕は深い共鳴を覚えていた。その人の伏せられた、冷えたコーヒーの水面を見つめる瞳の奥底には、ただただ静かで深い絶望の色が滲んで広がっていた。
その人と会って話をしたのはこの一回だけだった。僕はまた別の掲示板を利用して、全くタイプの異なる別の男の人と会って話を聞かせてもらうことにした。その人とも会ったのは一度きりで、僕はしばらく誰とも二回以上会ったりなどはしなかった。一人、また一人と相手を変え、僕は、ホモを自称するたくさんの大人の話を聞いていった。相手を探すのは簡単で、中学生の僕に対して興味を抱く大人は、ネットの掲示板の世界に無数に存在していた。
そのうちの一人と肌を重ねたことは、今思えば、自然な成り行きでしかなかった。僕は中学二年になる頃には、自分の体が実際、男を相手にちゃんと反応するのか、自分以外の誰かの目に自分の身体がどう映っていくのか、確かめたい気持ちに駆られるようになっていた。僕が抱いていたそんな気持ちを、その人は僕と会った瞬間、見透かしてしまっていたのかもしれない。相手はひとしきり話をすると、当然のように、予約していたホテルの一室へ僕を連れて行った。
乱暴なんてされなかった。むしろ丁寧すぎて照れくさく感じ、そしてちゃんと気持ち良いとさえ思えた。自分でする行為とは違うその感覚に、これまで自分が見聞きしてきた情報が本物であると知り、また別の安堵の感覚を抱いていた。
一度経験してしまえば、あとはもう、転がる石のようだった。僕は掲示板で新たに知り合った誰かと会う約束をし、話を聞く聞かないに関わらず、その誰かと性的な触れあいをするようになっていった。お互いに同性愛者であると分かった上での触れあいは、文字通り、気兼ねのいらないものだった。お互い普通ではないもの同士が触れあったところで、何かが失われることも何かを不安に思う必要もない。それが心から僕を安心させてくれていた。
自分は誰とでも性的な行為をすれば、順当に快楽を得られる人間である。そう知ってしまった僕は、自分が抱え込んでいた欲が特別なものではないと思うようになっていった。山口に対し向かっていた欲は、それが山口だったから引き起こされたものではなく、ただ山口が最も身近に存在していただけで、それが別の誰かでも自分は同じように欲を抱いていたに違いない、とさえ思うようになっていた。たまたま一番接点の多かった同性が山口だった、ただそれだけのこと。そう結論づけることで導き出した答えを、僕は僕自身に言い聞かせるように、何度も何度も頭の中で繰り返し続けた。それは目の前にいる山口のせいで生まれた何かではなく、僕個人の人間が持つ性質によって生まれた問題であって、山口とは無関係の代物でしかないんだ、と。
そうして月日が経つうち、SNSの普及に合わせて、ネットの掲示板は少しずつ縮小され衰退していった。それを目の当たりにした僕が、とあるSNSで取得したアカウントを使って相手を探すようになったのは、必然の流れでしかなかった。
僕はSNSのアカウントで定期的に、そういった行為に付き合ってくれる相手を募集するための定型文を作成し、投稿し続けた。場所や手段が変わったとしても、相手探しは容易なままだった。中学を卒業し、高校に入学しても、声をかけてくる相手は定期的に姿を現した。中には、こちらが求めていないのに金銭を渡してくる人物も何人かいて、僕は決まって断りの言葉を口にしていた。特に、身バレのしないよう自撮りした写真を添えて記事を投稿した時は必ず、そういったタイプの人間が少なくとも一人は声をかけくることに気付かされていた。それが不思議で、面白いなぁと、そんな風に感じる余裕さえも僕は抱くようになっていった。
遊ばれているのでも遊んでいるのでもなく、上手くつきあっている。僕は自分の中にあるこの欲の存在を上手くコントロール出来ている、そんな確信さえも持つようになっていた。僕の素性を知る家族にも知人にも、もちろん山口にも悟られることなく、僕は僕の心と身体を上手に飼い慣らしていく。このままこうやってやり過ごしていけさえすれば、僕はこれから先も変わらず山口と友達のまま付き合っていける。
そう思い込んでいたからこそ、あの時、あの瞬間、あの場所で、僕は、山口本人に僕の本性を知られたと分かったとき、自分という存在を取り巻く全ての事象を呪い、そして深く絶望していた。全てに絶望しきった僕は、僕に関わる全てを手放してもいいと一瞬で覚悟し、そして心から自暴自棄の状態になった。
だからこそ、こう言い放ったのだ。
「お前も僕に抜いてほしい、って思ったりしたの?」
あからさまに股間を膨らませ、驚きの表情で僕を見上げている山口が、今さっきまで僕が隣のトイレの個室で、赤の他人のペニスを咥えていた事実を知ってしまった、その事実は決定的だった。目の前に突きつけられている現実に、僕は、もうどうにでもなれ、と思考を投げ出していた。いっそ、このまま山口とも共犯の関係になってしまえば良いのではないか。そんな暴論にも似た考えさえも頭の中を満たしていった。俗っぽい言い方をすれば、その瞬間、僕にも魔が差していたのだ。
気づいたときには、僕は山口の股間に顔を近づけ、唇で触れていた。十年近く友達として付き合ってきた幼馴染の局部を、僕は自らの唇と舌で舐め上げていた。
「ツッキーは、こんなこと、誰にでもするの……?」
身体の奥で、ずきりと何かが軋む感覚がした。僕は唇を離し、自嘲に満ちた笑みを自然と浮かべていた。
「そうだ、って言ったら……?」
頭の中に浮かんでいた、その先の言葉まで声にはならなかった。友達をやめるのか、と僕は山口に問いかけたつもりだった。でも山口は何も答えず、僕が与える刺激に浸っていくみたいに、目を細めただけだった。
いつもと同じ、欲の指し示す方向へ、僕はただ流されていった。途中で山口から拒絶される可能性だって有り得たのに、最終的に僕は、充血しきった山口の性器を自分の中に導いていた。それまで勃起以前の状態のそれを見知ってはいたけれど、実際完全に勃ちきった状態の山口の性器は、僕の予想以上に大きいものだった。これまで何人か関係をもった相手の内では中の上くらいのものではあったけれど、僕は無意識に生唾を飲み、正直、それに期待を抱いていた。全てはこの一言に尽きた、もう全て失ってしまうというのなら、いっそそれを味わい尽くしておくべきじゃないのか。そう、文字通り自分は、そのたった一時のための欲によって流されることを選んだのだ。
山口は僕の勃起した性器を見ても、僕の喘ぐ声を耳にしても萎えることはなかった。それどころか、こちらが促したわけでもなく、挿入の際に僕の股間に手を伸ばし、向こうから直接触れてきた。それに加え自発的に扱いてきだけでなく、僕が吐き出したものですらしっかりと、その掌で受け止めた。山口は嫌な顔ひとつしなかったどころか、いつかの僕を称えるときの熱っぽいその視線で僕を見つめてきていた。その視線が僕にとっては、何よりも誤算だったのかもしれない。
僕は山口と体位を変え、二度目の挿入さえ促していた。初めはこちらが促したとはいえ、山口は僕の意図に応えるように腰を動かし、そのまま僕の中に射精した。挿入され、ピストン運動で突かれている間、僕は、その奥へ奥へと穿つように押し込まれる山口の性器の熱さと感触に、終始思考を浮つかせていた。高熱の中で見る夢のように、ただ呼吸をし、自分の身体が求める動きを無意識に選んでいく、そんな感覚だった。身体の端から端まで、快感からくる甘い痺れで肌を波立たせ、全身の筋肉がすべからく動いていくのを感じ取っていた。まるで熱に浮かされるように、自分の身体が自分のものではないみたいに、全身が快楽だけを受け止めるように動きつづけていた。自らの身体の反応に驚きも抱きつつ、僕は山口から押しつけられる性的な刺激を意識して楽しもうともしていた。理性をかなぐり捨てさせ、そして欲のままに動くように僕の身体と精神は導かれていった。僕は初めて自ら腰を動かし、生まれて初めて後孔への刺激だけで強烈なオーガズムに達し、射精までしていた。そんなことはそれまで一度としてなかった。
その事実に気づかされた時、ずっと満たされなかった身体の奥底の、ほんの数ミリの隙間がわずかにでも狭まっていくのを、確かに感じ取っていた。それは喜びの感情を呼ぶと同時に、僕に数年ぶりの絶望を感じさせた。そんなわけはない、とずっと否定し続けてきたものが急激に揺らいでいく音がしていた。
「抜いて」
あふれそうになる涙を必死にこらえて僕は言った。本音は、まったく反対の意思を叫んでいた。離れないで、いかないで、もっとこのままつながっていて。そんなことを言ってはいけないんだ、ともう一人の自分が叫んでいた。より理性を含んだその声に、僕の思考は従うことにした。
山口の身体が離れたとき、狭くなったその空洞の形が元に戻っていく感覚がした。塞がりかけた何かは、やはりぽっかりと口を開けたままだった。
どうして、こんなことをするのか。そう尋ねた山口の問いが脳裏をよぎった。壁に手をついたまま、僕は山口に顔だけを向けて囁いた。
「お前と、こうなりたかったから……、なんてね」
山口はぼんやりとした顔つきで僕を見るだけだった。冷静になれば失言でしかないその一言を山口がどう受け止めたのか、定かなことは分からないというのに、なぜか自分は妙な確信を抱いていた。きっと山口は秘密にしていてくれるだろう、きっと僕のことを言いふらしたりはしないでいてくれるはずだ。根拠もないのに、全てを曝け出してしまった故の境地か、僕は清々しさまでも感じるようになっていた。今振り返れば、間接とはいえ、自分の抱く気持ちさえも声にして発してしまっていたのだから、もうこれ以上何かを隠し続けるのも無理な話だと、無意識の領域で判断していたのかもしれない。
いつも通りの声の調子で話しかけると、山口はハッと我に返った様子で僕を見た。そこには驚きと、そして情事の余韻を感じさせる興奮がにじみ出ていた。
「ツッキーは、気持ちよかった?」
一瞬、何を聞かれたのか、上手く汲み取れなかった。文字通りの意味なのか、それ以上の何かがあるのかさえ分からず、僕は苦い顔をしていた。
「そっちはずいぶん気持ちよさそうだったけど、僕のここ、そんなに良かった?」
自分が何を言っているのかさえも、よく分からなくなっていた。身体の中に残る山口の性器の感触が、その部分の熱をくすぶらせていた。未練がましく震えている自分の柔い部分からの感覚に踊らされるように、僕はその提案を山口に投げかけてしまっていた。
「もし、こっちの機嫌が悪くさえなければ、お前のしたいときに、こういうことに付き合ってあげたって構わないけど?」
その瞬間山口の目に浮かんだ、期待に満ちたその感情は、僕の中の何かを浮つかせた。あまりにも熱っぽいその山口の視線を、その夜、僕は夢の中でも、もう一度見る羽目になってしまった。
「……上、乗って」
正常位でピストンを続けていた山口が、不意に体を引きはがした後で、ベッドの上へと仰向けに寝転がった。促されるまま、汗ばんだ山口の腹に手をつき、足を投げ出すように跨ってから腰を下ろす。後ろ手に探って触れた山口の固い性器を改めて自分の中に導きいれると、ぞくりと背中を伝う感覚に身体が震えていった。
根元までくわえ込んだのを目で確かめた山口が急くように腰をつきあげてくる。唇の端を舌でなぞって見てくる視線に苛立ちを覚え、反対に、大げさに漏れる声を聞かせてやろうと前傾の姿勢をとりかけたところで、遮るように山口の性器が容赦なく押し付けられてきた。
「ん、あ……そこ、……ん、」
こっちのポイントを逃さないように間を空けずに突いてくるせいで、自然と背中は反っていく。それが憎らしくも、気持ちの良いことには変わりのない事実に身体は素直に流されていく。
「こっちの、方が、良い、んだよね……?」
腰を揺らしながら見上げてくる山口の視線に、思わず顔をしかめていた。初めは童貞丸出しでただひたすら奥に押し付けてくるだけだった山口も、いつの間にか、こうやってこっちの性感帯を突くようになっていた。僕が気持ちよさで締まっていくほど山口としても気持ちよくなれるのだと知ったせいか、明らかに山口のセックスの仕方は変わっていった。初めのうちはそれが生意気で腹立たしいように思えたのだけれど、結局はお互い欲の吐き出しのためにしているのだから、開き直って気持ちのいい方を選んで何がいけないのだと、思うようになっていた。
山口特有の肌をぶつけるような荒い動きに揺さぶられ、意識までも緩んでいく。だらしのない声を漏らしていくと、山口の性器が一層固さを増したのが感じられた。
「ねぇ、気持ちいい、ツッキー……?」
揺さぶられる刺激に浸る中で耳に届いてきたその響きに、僕は山口の口を思わず手で塞いでいた。
「してるときは、名前、呼ばないって、約束」
つながったままの性器の熱を感じながら、その目をのぞきこむように睨みつける。ごめん、と手の中で山口の唇が動いていた。
気を取り直すつもりで、今度はこちらから身体を離し、僕はバックから突く体制へと移るように告げた。山口を押しのけるようにベッドの上にうつぶせに横たわり、そっと目を閉じる。耳元に覆いかぶさってくる山口の吐息を感じただけで、そこが期待で震えるのがわかった。自分の身体の反応に、心の中で舌打ちをする。腰のあたりを手でつかまれると同時に、山口の性器が押し入ってきて、その感覚だけで体温がまたわずかに上がっていくのを察していた。
「ン……もっと、奥……、もっと、」
すぐさま奥に推し進めようとする山口の動きに合わせ、身をよじった。背中を伝う汗の行先を想像しながら、より奥を掻き混ぜられる感覚に、神経だけでなく、脳が震えていくのを味わっていく。内臓を押し上げられ、擦り上げられる熱と快楽に思考を全て投げうって、自分のイイところを山口の動きに合わせてあてがっていく。ぞくぞくと駆けあがってくるものを抵抗せず受け止めたら、ドライというよりメスイキと呼ばれる快楽が押し寄せてくるのを感じていた。
「あ、あああ、んっ、……あ、いい……気持ちい……あっ、んぁ、」
こうなったら一度では止まらない。僕はバックで山口に突かれながら、そのままくりかえし絶頂に至っていた。自分では止められない大きな感覚の波に乗るように、何度も僕は声を上げた。三度目以降を過ぎては数える余裕もなくなり、ただ襲ってくる快楽の連続に身体だけが、追いつかない思考とは反対にひとつひとつ律儀に受け止め反応していこうとする。
「あ、……すごい、いつもより、締まって、……ずっとびくびくして、あ、……ツッ、キ……ん……」
遠くに聞こえる山口の声に苦言を示す余裕もなく、僕はバカになったみたいに締まりのない嬌声ばかりを漏らし続けていった。そのうち、自分の中で山口の性器が震え、山口が僕の中で射精した。どくどく震える山口から吐き出される熱いものが自分の中の隙間を奥の方から満たしていく。その震える動きだけに意識を集中させ、僕は奥歯を噛みしめていた。肉体とは別の次元の何かが満たされていく感覚に、自然と口角が上がっていった。
「電話、ずっと鳴ってたけど、出なくて良かったの?」
後始末を終え、身ぎれいになった僕に、山口が声をかけてきた。手に取ったスマホの履歴を見てみると、山口とこんな関係になる前から定期的に会っていた三十代の相手からの着信だった。それは、今まで会って来た大人の中で、僕のことを詮索もしないし変なプレイも強要して来ない、僕にとって一番都合が良くて一番ちょうどいいセックス相手だった。履歴には立て続けに三度着信があったと記録されていた。思い返せば、この相手と最後に会ってから、三カ月は優に過ぎていた。そのうち、二回くらい予定が合わないからと僕から約束を蹴っているのもあって、さすがにそろそろ何か勘づき始めたのかもしれない。
「別に、そんなの、お前には関係ないことでしょ」
スマホを鞄に仕舞う横で、まだ何か言いたげな表情の山口に、僕はつい、悪態をついていた。
「それとも、挿れたままの状態で、電話に出てほしかった、なんて、思ったりしてないよね?」
「そっ、そんなこと、思うわけない、よ……!」
とっさに否定する山口のあまりの必死さに、僕は皮肉めいた笑みを返していた。
「冗談に決まってるでしょ、バカじゃないの」
ため息を吐きながら、さっきまで二人で組んずほつれずで汗まみれになっていたベッドの端に腰を下ろす。流石に何度もイキすぎた身体は、たしかな疲労を訴えていた。いつもならさっさと後腐れないように帰るのだが、今日はこのまま歩いて帰るには無理がありそうだった。少し休んでからにしようと決めたところで、隣に腰を下ろしていた山口から声をかけられた。
「ツッキーは、その……、俺以外とも、こういうこと、してるの……?」
背中を向け、明後日の方を向きながら小さく縮こまっている山口の後姿は、さっきまで欲望のまま、快楽を求めるためだけに腰を動かしていたのと同一人物だとは思えなかった。ぽつり、と溢すように投げかけられた声のあまりの弱々しさに、僕は思わず笑い声を漏らしていた。
「してたら、何……、どうかするっていうの?」
こちらの投げかけに、山口は返事をしなかった。実質、それは僕なりの否定ではあったのだけれど、それが山口に通じるわけがないと、僕は同時に確信を抱いていた。
山口と寝るようになってからひと月くらいの間については、僕はそれまで定期的に会っていた相手との関係を変わらず続けていた。ただ、山口との回数が増えれば増えるほど、自然と、山口とそれ以外の相手との行為を比べるようになっていった。そうするうち、僕はいつからか、山口以外の誰かからの誘いを全て断るようになってしまっていた。別に山口とするセックスが良かったのではない。山口以外の誰かとしている間、山口としたセックスのことを思い出し、無意識に比較し、行為に集中することが難しくなった。ただ、それだけの理由だった。溜まった欲を全て発散させることが出来ないならば、それは時間の無駄でしかない。僕はそう思った上で、意図的に山口以外の誰かと会うことを控えるようになっていた。強いて言うなら、山口と僕の身体の相性は決して悪いものでは無かった。癪には障るが、それは揺るがない事実で、僕個人が認めようが認めまいが、僕は山口とのセックスだけでドライオーガズムやメスイキを体感するようになった。自分の身体のどんな仕組みがそうさせているのかは自分でもさっぱりわからなかったが、最も気持ちよくなれるならそれでいいじゃないかと、僕は開き
直りをここでも発揮することにした。幸いなことに、山口からの誘いは三日と開かずにもたらされた。毎度挿入をするわけではなかったが、山口は休み時間でも放課後でも、わずかな時間でも性器を固くし、それを僕に知らせては、トイレなんかで抜いてもらえないかと囁くようになっていた。その全てに応えてきたわけではないが、こちらの気が向かない時をのぞいて、僕は山口の性欲の処理に程よく付き合ってやってきていた。その点でも山口は僕の予想を裏切っていた。幼馴染がこんなに性欲の強い男だとは、知りもしなかった。山口は僕が断るも断らないも含めて、毎週一度はセックス出来ないかと遠まわしに聞くようになっていた。
「俺は、ツッキー以外、したことないけど……」
僕の問いに答えられずにいた山口が、しばらく黙り込んだ後で、思い出したかのように口を開いた。
「ツッキーは、俺以外の誰かとしても、こんな風に気持ちよく感じてるのかな、って……そう思って……」
もじもじと自らの二つの手を自らの手で揉みしだきながら発した声は、今にも消えて行ってしまいそうなほど、か細いものだった。事実に沿うならそれは否定すべき質問ではあったけれど、僕はそれに言及する気にはなれなかった。
「何が言いたいの?」
だから敢えてわざと不機嫌そうな声で聞き返していた。山口は僕の顔を覗き込むように視線を向けた。
「俺、ツッキーが誰かとこんなことしてるんだって思うと、こう、胸のこのあたりが、なんていうか、」
山口の両の手が、もぞもぞと胸の上を掻きむしるように動かされる。
「その、うまく言えないけど、こんな風にもやもや、ってなって……」
「それで?」
「あー……だから、その、俺なんかが言う資格なんてないって分かってるけど、正直に、言うとね、……俺、ツッキーが他の人としてるって考えると、ものすごく、なんか……嫌だなぁ、って……いや、ほんと、俺が言える立場なんかじゃないって分かり切ってるんだけど、その、……えっと、なんていうか……」
煮え切らない山口の言葉に舌打ちをする。びくりと肩を震わせた山口が僕の顔を反射で見返し、そして驚きにつられたかのように声を発した。
「俺、ツッキーのこと、好きだから」
唐突に投げかけられた言葉に、一瞬、表情を奪われた。呆気にとられるとはまさにこういうことかと思うほどに、僕は本当に短い一瞬の間、頭の中を根こそぎ吸い取られたかのように空っぽになってしまっていた。
「だから、俺、ツッキーのこと、その……」
僕が何も反応しないことに気まずさを覚えた山口が弱々しくそう口にするのを目の当たりにした僕は、筋肉の弛緩に合わせて笑い声を噴き出していた。
「ばかじゃないの、セックスしただけで彼氏面とか、ほんと、山口のくせに、何言っちゃってんの、」
ゲラゲラと腹を抱えて笑う僕の目には、何故か滲んだ涙の粒が浮かんでいて、それがぽたりと膝に落ちるのを感じていた。酸素を求めて息を吸えば、それはすべて、かすれた笑い声となってすぐに吐き出してしまう。
息も苦しくなるほど笑い続けている僕に、山口がぐっと顔を近づけてくる。その顔があまりにも真剣そのもので、僕は肩を震わせながらも、唇の端が歪んでしまうのを止められなかった。
「こんな、好きでもない、初めて会った相手だろうと見境なく咥える僕のことが嫌になったなら、もう、会わなければいいだけでしょ。なのに、説教しながら、これからも自分とはセックスしてほしいとか、そんなの、矛盾してると思わないの?」
天を仰いで大口を開けて笑い飛ばそうとする僕の腕を、山口の手が掴んできた。掴まれた手の熱さに、思わず息を飲む。ようやく笑い声の途切れた僕の目をのぞきこむように、山口の目が僕の視線をとらえて離さなくなった。
「俺、ツッキーが俺以外の誰とも会わないでいてくれるなら、もう、この先ずっと俺は、ツッキーとセックスしなくたって良い、って、そう思ってるよ」
「……なにそれ、今さら友達に戻れるなんて、思ってるわけ? それとも、僕と付き合いたいとか、そんなふざけたこと言うつもり?」
唇の端に笑いを残したまま告げた僕の腕を、山口の手が一層強く握りしめてくる。逸らされない視線が僕の目の奥をのぞきこもうと近づき、僕は奥歯を噛んだ。止めてくれ、と心の奥の何かが叫んでいるのを、必死に抑え込もうと表情を消していった。
「俺、ツッキーのこと、大切に、甘やかしてみたい」
照れも見栄も感じられない真剣な表情で、山口はそれだけを言った。聞き受けた僕の胸の奥で、押しこめようとした何かが膨らんで痛んでいくのを感じていた。
「付き合ったところで、セックスして終わりでしょ、一緒にいるんなら友達でいいんじゃないの、付き合ったところで何かが変わるとか、そんな風に思ったりするの? 傲慢だね」
「そうかもしれない、でも、俺、ツッキーと一緒にいたいんだ……セックスとか、そういうの抜きで、ツッキーと一緒にいられたらいいな、って……そう、思うんだ」
「山口の方が我慢しきれなくなるんじゃないの」
その皮肉を口にするために頭に浮かんできた、これまでの山口との行為を思い返すと、落ち着いたはずのそこが疼きそうになり、僕は必死に山口から目をそらしていた。
「第一、約束したところで、僕がそれを守るとは限らないでしょ……」
「ツッキーがそうしたいならそれでもいいけど、」
さっき言ったことと矛盾してる、と指摘しかけた僕の目を、山口は相変わらず真っすぐに見つめていた。その視線に言葉を発する意欲を削がれ、僕はただ山口の次の言葉を待ち受ける形になっていた。
「なんだか俺、ツッキーがどんどん自分を傷つけているように見えて仕方ないんだ、だから、俺で止められるなら、俺は全力でツッキーのことを止めてみせたい。自分でも傲慢だって分かってる、だけど、もう、泣きそうなツッキーの顔、見たくないんだ」
「は? 泣きそうな顔なんて、いつ、どこで僕がしてたって言うんだよ、そんなのお前の好き勝手な想像でしょ、そもそも」
「今だって、ツッキー、すごく悲しそうな顔、してるよ?」
ハッと息を飲んだ瞬間、自分の目の端から溢れた何かが頬を伝っていくのを感じていた。そんなわけはない。そう叫ぶ声も空しく、恐る恐る指先で拭ったそれは、間違いなく僕自身の涙でしかなかった。
「さっき笑いすぎただけだから、こんなの、」
うろたえながら口にする僕を見つめ、何故か対面する山口の顔の方が今にも泣きだしそうなくらいのぐしゃぐしゃの表情へと変わっていく。どうしてお前が泣くんだよ、と告げかけた唇は震えて、言葉を紡いではくれなかった。
「気持ち悪く、ないの?」
代わりに漏れ出たその言葉に、山口の目が疑問の感情で見開く。頭に浮かぶ言葉は全く別の皮肉めいた強がりばかりだというのに、唇からこぼれ落ちるのはそれとは正反対のみっともない言葉ばかりだった。
「僕がお前のことが好きで、お前とのセックスだけでしか何回もイッたりしない、とか聞かされて、お前は、気持ち悪い、とか、思ったりしないの?」
僕の目を見つめていた山口の顔に、パッと驚きが広がった。それはたった一瞬の表情で、そこからすぐに山口の顔は高揚と喜びに満ち溢れていった。
「え、それ、本当……!? ねぇ、嘘とかじゃない……?」
その感情の色を全く予想すらしていなかった自分は、あまりの不意打ちに瞬きすらも忘れそうになっていた。山口は僕の返答など気にもしない調子で、矢継ぎ早にこう告げた。
「もし本当なら、俺、ツッキーのこと、本気で、絶対、ずっとずっと幸せにしたい、大切にしたい、ツッキーのこと、俺ひとりのものにしたい」
それは頭に浮かんだもの全てを口先からすべからく吐き出そうとしているかのようで、そこに嘘偽りがあると考えるには、どうにも苦しいくらいの勢いを含んでいた。
「そんなこと、出来るの」
「出来るように、するよ!!」
山口の手が僕の腕から離れ、その両手で包み込まれるように手を握りしめられる。包み込まれた熱の感覚に、思わずそこに視線を向けていた。武骨で綺麗とは思えない男同士の手が四つ、ぶつかるように重なり合っていた。
視線を上げ、山口の表情を確かめようとすれば、自然とまた目が合った。気づけば鼻と鼻が触れてしまいそうなほど近い距離に、山口の顔があった。あ、と思った瞬間、僕の唇に山口の唇が触れた感覚がした。目を閉じる暇もなく離れた山口の視線が、僕の目を不安そうにのぞきこんでくる。
「ごめん……しない、って約束、破って」
約束といっても、明確に交わしたものではなかったが、遠まわしに拒み続けていたのは僕の方だった。山口がそれを察した上で、ずっと暗黙の了解として守ってくれていたことは、僕も充分理解していた。それを破るということは、これまでの関係に戻るつもりはないという意思表示なのかもしれない、そう思った瞬間、僕は、また、どうにでもなれ、と心の中で囁いていた。
山口の耳元を両手で包むように押さえ、僕は山口の唇に向かってキスをした。初めて自分からしたキスは、どうにも勝手が分からず、それでも無我夢中でその唇を吸い、押し込んだ舌で山口の舌を絡めとった。噛みつくような姿勢で重ねた唇を、山口は拒むことなく、むしろ僕の舌の動きに合わせ、何度も絡ませてこすり合わせてきた。ぞくぞくと首筋を這う感覚に目を細めると、腰のあたりに山口の腕が伸びてきて、僕の身体をぎゅっと抱き寄せた。お互いの漏らす息の熱さを感じながら、僕と山口はしばらく続けた後に、だるさに負けてようやく距離をとった。離れた矢先に山口が僕の唇の端へと、ほんの一瞬名残惜しそうに、唇を触れさせただけで離れていった。
「キスも、セックスと同じくらい……お前となら、悪くない、ね」
乱れた息を整えながら、僕は薄く笑っていた。今までどんなプレイでも感じたことのない不思議な心地よさが、胸の奥からとめどなく湧き起こってきていた。その感覚を噛みしめては、もう否定することなど無駄だと感じていた。僕は山口の手を取って、ぶっきぼうにこう告げた。
「僕のこと飽きさせたら、容赦しないから」
つかまれた手を見やって目を見開いた山口は、信じられないと言った表情で僕の顔を見つめていた。
「え、それって……」
「その先を言わないと分からないほど、お前だって馬鹿じゃないでしょ。……僕を恋人にして後悔したとか、絶対に言わないって、約束、してよね」
パッと笑顔を浮かべた山口の腕が伸びて、僕の身体を覆うように抱きついてきた。
「うん、もちろん、絶対そんなこと、ありえないから大丈夫だよ!! ツッキー、大好きだよ」
ドキリ、と震えた心臓が騒がしくなり、それは甘いしびれを伴っている新鮮な感覚として全身に広がっていった。僕を抱きしめる山口の肩に頭を寄せ、僕は小さくうなづくとともに、山口にも聞こえないくらいの小さな声で、そっと囁いていた。
「うん、僕も」
とくとくと繰り返される心臓の音に耳を傾けながら、僕は身体の奥底にたまった何かとともに深く息を吐き出していた。これまで何年もしがみついていた悪い何かさえも溶けて吐き出されていくようで、僕は数年ぶりに、初めて呼吸をしたような気になった。全身から力が抜けていき、胸のあたりはふわふわと軽く浮き上がったようになり、閉じた瞼の内側ではキラキラとした何かがまばゆくきらめくようだった。あぁ、僕は山口のことを好きだと認めていいんだ。そう思えた、初めての瞬間だった。