「これから先、振り向いてくれなくても忘れてくれてもいいから、ずっと変わらずツッキーのことを好きなままでいて、良いかな?」
 高校の部活を引退するとき、山口から言われたのは、そんな言葉だった。曖昧で遠慮に満ちて、自分との長い付き合いの時間にも甘えたりしないその言葉に、自分は、ただただ了承の意味を込めて、うなづくことしか出来なかった。それを受け取った山口の顔は穏やかに表情を緩めていき、細めた目で僕を見つめたまま、こんな言葉で締めくくった。
「ありがとう、ツッキー。ずっと前から、今も含めて、これから先もずっと、俺はツッキーの味方だから。俺に出来ることなら、いつでも構わず何でも言ってね」 
 それ以降、山口が僕に対して抱いている好意について言及したことは、一度としてなかった。高校を卒業しても、大学を出て社会人になった後も、月に数回、お互いの趣味が重なった分野の目的地への遠征や、仕事の愚痴を含んだ飲み会で顔を合わせることはあったとしても、それらは全て友人の関わりとして不自然ではない範囲に限られていた。
 山口から触れてこない話題に対し、こちらが敢えて蒸し返すつもりなど、僕は微塵も持ち合わせてはいなかった。久しぶりに顔を合わせた山口が、たとえ高校の頃と同じように自分のことを好きだと思っていなかったとしても、それで良いと思っていた。反対に、山口が宣言の通り、長い年月を経ても変わらず僕のことを好きだと思っていたとしても、それを否定するつもりもなかった。高校時代、山口からの告白は、少なくとも四回はあった。最後の四回目が例の宣言であり、それ以前のすべてにおいても山口は自分の気持ちを口にするだけで、付き合いたいとか、僕が他の誰かと親しくしないで欲しいといった要求の言葉を、一切発してはこなかった。ただ、好きだ、と告げるだけの告白は、いつも山口の中のその感情があふれて止まらなくなった時に限って漏れ出す、まるで生理現象のひとつのような代物でしかなかった。風邪をひいたときの咳に同じく、体温が上昇したときの発汗に似て、本人にも堪えようのないものでしかなかったのだろう。だから自分は、いつもそれらの言葉に、「分かった」としか返しては来なかった。
 自分の気持ちはどうだったのか。社会人になり、学生時代が懐かしむほど遠く感じられるようになってから振り返って考えるようにもなっていたが、いつも答えは曖昧模糊としてとりとめが無く、嬉しいとも不快とも感じず、ただただ人からの好意は有り難い物ではあるけれども、それを受け止めるための技量が自らに無いことを自覚した上で、どう取り扱っていいものか、いつにおいても自分はすべてを持て余していた。それは山口のそれに限らず、自分に向けられる全ての好意に対してなのだから、自分ではどうするわけにもいかない部分なのではないかと学生の頃から常に人からの好意に対し、距離を置くことにしていた。ただ、山口の場合、他の異性と違って僕と長らく友達でいた上に、山口本人が告白を経た後も変わらず僕と友人の距離感のままに接してくるために、僕らの距離が変わることは一度もなかった。僕はある種その山口の態度に甘えるように、大人になっても変わることなく、友人のまま関わり続けていた。
 先月の終わり、今から二週間ほど前にも変わらず二人で飲みに行った。その記憶も真新しいうちだというのに、あの日僕の前で笑ってビールのジョッキを片手にしていた山口は、今僕の目の目の前で静かに横たわっていた。山口の実家、和室の真ん中に横たえられた山口の顔は綺麗に整えられて、眠っているだけだと言われたら信じてしまいそうなほど瑞々しい見た目をしていた。死因は頭蓋骨陥没による脳挫傷。残業帰りに利用した駅構内の階段の上部から足を滑らせ、運悪く後頭部を強く打ち付けたのだと、そう話に聞いていた。
 はじめは到底信じられない話だと感じていた。山口という人間は、その性格上、少しドジな部分があって、どうにも詰めの甘さを感じずにはいられない部分はあったかもしれないが、それでもこんな風にあっさり死んでしまうような運の悪い人間だったとは思えないのだった。明日、僕が気まぐれに山口の携帯に電話をして、今日中に会いたいと言えば、例のごとく、地球の裏側からでもすぐさま会えるように駆けつけてくるのではないかと、そう思わせるくらいの男なのだ。こんな僕の知らないところで、笑えもしない悪い冗談のような理屈で死んでしまうような男ではないはずだった。
 布団の中で横たわる山口を前に、これは誰かの仕組んだ悪ふざけなのではないかと、そんな予感を抱いた自分は、気づけばその布団の端の方を静かにめくっていた。そこに現れた山口の手は、記憶のまま、そこにあった。骨が張って不格好な、山口の手の形を懐かしむように、僕は自らの手をその手の上に重ね合わせていた。ひやり、と味わったことのない感触が手のひらの皮膚を通して伝わり、思わず息をひそめていた。指を這わせ、絡めたままに両手で、そっと持ち上げる。その感触に、これまでこうして手を繋いだことさえなかったのだと、これまでの山口との思い出を振り返りながら改めて感じ取っていた。
 いつの記憶を振り返っても、山口は隣で僕の顔を見つめ、そしてまぶしそうに目を細めていた。山口はいつでも僕の味方で、僕のことを他の誰よりも好きでいてくれた。その証拠に、山口はこれまでの貯金を含め、自らの所有物を全て僕に譲ると示した遺言めいた言葉をスマホのメモ帳の中に書き残していた。
『俺の持ってる物、遺した物は全部ツッキーに託します。処分するのも、受け取るのも、全部ツッキーの好きなようにしてください』
 握った手の指先が動くことはもうないのだと分かりきっているはずなのに、その手を強く、強く握りしめていた。山口の手は思い出の中のそれよりも分厚く、いろいろなものを受け止めてきた器の大きさを感じさせる広さを持っていた。僕は目を閉じ、その手の指先に唇を寄せていた。
「ありがとう山口、僕のことをずっと好きでいてくれて」
 山口の覚悟も宣言も全て本物だったと知らされた瞬間、頭の中に浮かんだ賞賛の言葉を、僕は山口に向けて送っていた。出来ればこんな形で知るのではなく、もっと別の形で感じ取ってみたかった。そんな後悔の言葉は、胸の内にぐっと押し込めていた。繋いだ山口の手は、強く握る自分の体温が滲んで、一瞬、懐かしい温かさを持ち始めたのではないかと、錯覚してしまいそうなほど、優しい柔らかさで満ちていた。