部室の窓から見える体育館と校舎の光景は、二年前の入部の日のそれから何も大きく変わってはいなかった。卒業式の練習を終えた在校生たちが荷物を片手に、校歌の音程を口ずさんで確かめながら校舎の外を歩いていく。その姿を目にしながら、それまで自分がその立場だったはずなのに、と息を吐いていた。
 ガチャリ、と背中の方からドアの開く音がして、誰かが部室に入ってきたようだった。
「やっぱり、ここにいた」
 振り返らずとも、その声の主がツッキーであることは俺は分かりきっていた。窓の外に視線を投げながら、うん、と同意の言葉だけを飛ばすように返していた。
「卒業するのが名残惜しくでも、なった?」
 俺の背後に近づきながらツッキーがそう尋ねるので、俺は唇の端に力を込めながら、窓の外に向けて首を横に振った。
「ううん、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、それとも、最後の最後に思い出でも作りに来たの?」
 違うよ、と振り返って、俺は自然とツッキーに向けて笑い返していた。それはプラスの意味の笑みではなく、どちらかと言えば苦笑に近い笑みになっていると、言われなくてもちゃんと自覚していた。視界に映りこんだツッキーは、俺の顔を見て、寂しそうな、少し残念そうな顔で、柔らかく笑っていた。
「ツッキーこそ、人のこと言えないくらい、寂しそうな顔、してるように見えるよ」
「そう?」
 制服に身を包んだツッキーは、その両手を軽く左右に広げながら、おどけたように首をすくめて、そう言い返していた。その仕草がなんだか冗談のように俺は捕えきれなくて、自然と唇を引き結んでいた。そんな俺の顔を見て、ツッキーが絵にかいたような余所行きの笑顔を浮かべて、俺の身体に腕を回してきた。
「だったら、少し協力して」
 抱きしめられるとは思っていなかった俺はドキリと肩に力を込めたけれど、ツッキーにそれは伝わっていないようだった。ツッキーは俺の背中の真ん中で自分の両手を重ね合わせ、そしてほんの少しその手に力を込めたかと思うと、俺の耳のあたりに鼻先を埋めるようにして顔を押し付けてきた。
「ツッキー……?」
「あと三十秒だけ」
 動かないでいて、と声に出さないまでもツッキーが伝えようとしているのは分かりきっていたから、俺はツッキーの肩に手を回しながら、その背中をゆっくりと撫でさすってあげた。すう、とツッキーの身体に息が吸い込まれ、はぁ、と吐き出される。その息の熱さが耳の近くの髪の毛の間を潜り抜けていき、俺はそのむずがゆい感覚を誤魔化すように、とっさに口を開いていた。
「ツッキーこそ、俺のとは比べようがないくらいになってるじゃん、どうしたの? ツッキーらしくないけど、それくらい、烏野から卒業するのが嫌なくらい好きになってたりした、ってこと?」
 冗談半分の気持ちで軽口を叩いただけのつもりだったのに、ツッキーは俺の言葉に何の反応も示してはくれなかった。そんなわけないじゃん、と言い返して小突いてくるくらいの返しがあると予想していただけに、俺はどうにも次の言葉を続けることが出来なくなってしまっていた。
 体感で三十秒、本当は一分近くあったのかもしれないが、ツッキーは自分のタイミングで俺の背に回していた腕を、そっと外して身体を引きはがすように離れていった。
「ありがと」
 短く告げたツッキーの顔は、見たことがないくらい、しおらしいものになってしまっていた。
「ツッキーの大学、電車で片道40分だったよね、俺、落ち着いたらすぐ、遊びに行くよ。だから、その、」
 安心して、と言うのも何だか噛み合わないような気がして、俺は仕方なく笑って、その語尾を濁していった。ツッキーは俺の顔を見ながら、まぶしさにしかめるように目を細めて、こう言い放った。
「うん、明日の卒業式、山口が泣いても、僕は泣いたりなんかしないから。山口が泣いてたりしたら、指さして笑う準備くらいはしておくから」
 いつもの調子が戻ってきた、そう思えた瞬間、俺はホッとして笑みをこぼしていた。
「ツッキーの方こそ、俺より先に泣いてたら、俺、絶対に気づいて見つけるからね」
 にっ、と口角を引き上げ、ツッキーは俺に目線で返事をした。そんなわけないでしょ、と書かれた視線を、俺はちゃんと見逃さずにいた。
 それなのに、次の日、ツッキーは卒業式の会場である体育館に一度として、姿を現すことは無かった。ツッキー不在の卒業式は、つまらないくらい練習通りに、すんなりと終わりを告げていった。
 卒業式の後、俺は転がるように走り回ってツッキーの所属していたクラスの担任の先生に声をかけた。
「山口、お前知らなかったのか、月島はもう大学の最寄りの一人暮らし先に一足早く向かうために卒業式には来ない、ってひと月以上も前から連絡があったんだぞ」
「どうしてですか、ツッキーの大学はここから電車で一時間もかからないところですよね」
「何言ってるんだ、月島の進学先は九州だろう?」
 え、と俺は息を飲んだ。体育館の隅で立ち呆けている自分の肩を、誰かに強く叩かれた気がした。振り返ればそこには、同じバレー部だった三人が立っていた。
「山口、どうかしたのか?」
 俺の肩を叩いたのは日向だったようで、肩に載せた手を下ろしながら、首を傾げていた。
「俺、その、ツッキーが、いないって、知らなくて、」
「月島? あいつ、卒業式出るつもりがない、って言いきってたけど、聞いてなかったのか?」
 震える俺の言葉を遮って影山が不思議そうに口を開いた。その隣で、え、と大きく開けた口を手で塞ぐ谷地さんと目が合った。
「谷地さん、何か聞いてたりした?」
「いや、あの、えっと……月島君、北海道行の飛行機の時間があるから、って私には、そう……」
「北海道?」
 谷地さんの声に、俺と日向の声が重なって反応した。思わず日向の顔を見ると、俺と目が合った日向が大きく左右に首を振った。
「おれが聞いたのは違う、広島に行くから新幹線乗り継ぐのに時間かかる、って」
 え、と俺以外の二人が同時に口を開いていた。俺は三人の顔を順に見回してから、そのどれもが本当に自分の聞かされていた情報が真実と異なることに本気で驚いているのだと、そう読み取っていた。
 頭の隅から、目に焼き付いたツッキーの寂しそうな笑顔が浮かび上がってきていた。奥歯を噛みしめ、俺は自然と両手に拳を握りしめながら、体育館の外へ飛び出していた。
「山口くん……ッ!?」
 すれ違い様に谷地さんの声がしたような気がしたけれど、俺は一度も振り向くことなく、校舎の脇を走り抜け、部室棟の窓の下へと息を切らしながら駆けつけていた。見上げた窓は閉められたまま、そこに誰の人影も映してはいなかった。ふいに、見上げた俺の耳元に昨日感じたツッキーの熱い息の温度が髪の内側に広がっていくような、そんな気がした。あれは、もしかしたら、最後のお別れのつもりだったのかもしれない。そんなことを思った途端、軽口に笑って答えるツッキーの顔を思い出して、俺はぐっと拳を握りしめ、大きな声を発していた。
「ツッキーの、馬鹿ァ―――ッッ!!!」
 きっと誰にも本当の行き先は告げてはいないのだろう。ツッキーと何年も一緒にいた俺には、そんな簡単な推測なんて朝飯前のことだった。俺に何も言わず遠くに行って、もう二度と俺たちとは会わないつもりなんだろうか。何でそうしたのか、理由すら教えないままに、勝手にいなくなって、しかもつまらない嘘までついて、一瞬だけでも安心させておきながら。
 昨日部室で抱きしめ返したツッキーの身体の温度を思い返しながら、俺はこみあげてくる涙を必死にこぼれないように押し殺していた。これで泣いたりしていたら、ツッキーの思うつぼでしかないんだ。そう思いながら握りしめる手の内側には、爪の食い込む跡がハッキリと刻まれようとしていた。