山口忠という男は、やたらめっぽう朝に弱い。それは学生の頃から良く見受けられた現象で、決して目覚まし時計が役に立たないわけでもなく、早く起きられないわけでもないはずなのだが、たとえ予定通りの時刻に目覚めたとしても、そこからしばらく布団の中でもぞもぞと丸まっては這い出せずにいたり、無事に早々と布団から抜け出せたとしても、その顔は、どこか半分意識を眠りの世界に置いてきぼりにしてしまったような、そんな、ぼんやりとした様子でしばらく無意味に立ち呆けてしまっていたりする。
「ツッキー、おはよ……」
だから今日も、こちらがいつもと変わらないタイムスケジュールで朝のルーティーンをこなしている横で、まだ目が半分しか開けられていない山口が、眠そうに洗面台へと向かっていく。こちらはもう朝の身支度をほぼ終え、あとは軽く髪をまとめて整えるだけの段階に入っているのだが、山口が起きてきたとあれば、優先して洗面台の前を空けるのは当然のことだった。いくら山口の家を出るタイミングが僕の家を出るタイミングより十五分遅いのだとしても、今からこんな寝ぼけた状態で支度をして、よくその時間までに間に合わせられるものだ、と僕は常々不思議に思ってしまう。
僕の隣、洗面台の前へ立った山口は、まず手を洗い、そのまま手ですくった水道の水を顔面にかけ、その眠そうな顔をまんべんなく濡らしていく。壁にかけてある洗面台用の手拭きタオルを掴み取り、顔を拭くと、いつもと変わらない仕草で歯ブラシを握りとり、その隣の歯磨き粉のチューブまで手に取ると、ほんの少し中身をのせ、目を閉じたまま口の中へ咥えこんだ。山口は毎朝、起きがけにまず、歯を磨く。これで朝食を済ませた後にもう一度軽く歯を磨くのだから、朝の支度は人より時間がかかって当然かと思うのだが、僕と同じ時刻に起き上がった朝となると、それでも山口の方が先に支度を済ませていることの方が多いのだから、ますます自分は朝の山口の動作について不思議に思ってしまうのだった。
握った歯ブラシを口にくわえたまま、小刻みに指先で揺らしている山口の横顔は、見ているだけでこちらも眠くなってしまいそうなほど弛緩しきっている。その目はほぼ閉じられ、頬の筋肉は緩み、時々うっかり緩んだ口元から零れ落ちそうになるものをハッとしながらひっこめようとする。今日の山口は、いつも以上に眠気に支配されているようだ。見れば傾げているだけのように見えていた頭は、少しずつ角度を進めて、小さく、こくり、と落ちたかと思えば、見開かれた目と共に垂直に戻されていく。歯を磨きながらウトウトできるとは、どういった感覚なのだろう、と疑問にも思うが、実際に目の前でやられているうちは、事実として受け止めるしかない。
「ちょっと、」
寝ぼけている山口に意識を取り戻してもらおうと声をかける。
「んー……、はぁに?」
目を開けることなく歯ブラシを咥えたままの山口が、適当な返事をする。ひと目、横目でこっちを一瞬見てくれさえすれば、さっきから僕が、こうして、髪をまとめ終えたがために汚れた手を洗いたくて洗面台の方へと手を差し出している姿が目に入るはずだというのに、寝ぼけている山口は一向にこちらを見てくれはしない。鏡の前、洗面台の前を塞ぐように立ちすくんでいる山口の脇を肘で小突くことも出来なくはないが、それで下手に驚かれて歯ブラシを床に落とされたり、ひどく咳き込まれたりするのは避けておきたい未来だった。
どうしたものか、数秒の間こちらが思案している間も、山口は相変わらず小さく船をこぎながら歯を磨き続けていた。寝ぼけているせいか、いつもの倍の時間がかかっているのか、一向に終わる気配がない。むしろこうして船を漕ぎながら歯を磨くのは、事故の元となるのではないか。そんな不安さえ頭をよぎるほどの危なっかしい様子に、そうだ、とひとつ頭に浮かぶ案があった。
「山口」
声をかけながら、隣に立つ山口の肩のあたりを、軽く二回、手の甲でノックするように叩く。ん、と細目でこちらを向いた山口のその頬が自分の方へ近づくのを確認してから、スッと顔を近づけ、その頬の上に唇を押し付けた。
「ん……っ、えっ、」
目の前で山口の目が、覚醒したかのように見開かれる。その目の中に自分の影がしっかりと映り込んでいるのを見つけるなり、僕は意図して、ニヤリと口元を引き上げて笑みを差し出していた。
「目、覚めた?」
ポカン、と口を開けた山口の顔は予想の何倍も間の抜けたものだった。自分が何をされたのか理解するにはまだ脳が目覚めていない山口は、僕が手で洗面台の前を開けろと示した動きに従って、一歩、鏡の前から離れていった。その隙間に入り込むように手を伸ばし、ひねって出した水の中で両手を擦り合わせていく。後ろに立つ山口が今どんな顔をしているのか、顔を上げて鏡の中を覗き込んでみる。僕の後ろで狐につままれたかのような表情で目を白黒させている山口もまた、僕と同じように、鏡を介して僕の表情をうかがっているらしかった。
濡れた手をタオルに押し当てながら、鏡の中の山口に笑いかける。
「急がないと、また、時間ギリギリで走る羽目になるけど、良いの?」
鏡の中で考え込んでいる表情だった山口が、ハッと再び目を見開いては、握っていた歯ブラシを慌ただしく動かしていく。手を拭き終えた自分が洗面台の前から下がると、同時に磨き終えたらしい山口が一歩、すれ違いに鏡の前へと足を進めた。ぺっ、と吐き出して、早々、
「起こしてくれるのは良いけど、そういうのは、もっと、ちゃんと俺がツッキーのこと見ていられるときにして……!」
不満げに告げた山口の声色の可笑しさに、僕はつい、ぷっ、と噴きだしていた。
「だったら、朝からちゃんと起きて動いていれば良いだけでしょ」
お前が悪い、と遠回しに告げた僕に、山口は慌てて口をゆすぎ終えてから、
「もう、ツッキーの意地悪、そういうことじゃないんだってば! 俺は、真剣に……!!」
ハイハイ、と受け流し、手のひらを空中で、ひらりと翻す。
「目が覚めて良かったでしょ。ほら、どうでもいいけど、ほんと、その調子で仕事、遅刻しても知らないから」
洗面台の脇に置いてあるデジタル時計の表示を目にした山口が汚い叫び声を上げるのを無視しながら、僕はひとり、さっさと用のない洗面所から離脱していった。背後からは引き続き、慌ただしく髪を梳かす山口の息遣いが聞こえてくるばかりだった。