映画館で僕と山口が選ぶ席は、いつも決まって館内の一番後ろの中央の席だった。お互い平均身長より高いこともあり、どうしても頭ひとつ座席の背もたれから頭が高く出てしまうため、後ろに誰もいないこの席を選んでチケットを購入し、座るようにしていた。最後列といっても映画を観るのに支障はなく、スクリーン正面の席が選べるのであれば、僕も山口も不満はなかった。
今日も山口は「映画館といえばポップコーンだよね」と口にしながら、映画館の売店で大きなバケットのポップコーンを購入した。それはお決まりの流れで、二人で一つのバケットを共有するのが僕と山口の映画館での当たり前だった。熱々のポップコーンが溢れそうなほど盛られたバケットと二つのドリンクの入った紙コップを片手に、僕と山口は二人そろって、劇場の中へ続く入場口の列に加わった。
劇場の中は薄暗くなっていて、映画館のサービスについて紹介する動画が流れていた。今日観に来たのはハリウッド製のアクション映画で、監督のファンである山口が新作を見たいと言うので、それならデートのつもりで付き合ってやろう、と付いてきたのだった。好みというほどでもないシリーズ作品ではあったが、前作、前々作である一作目と二作目も同じく、山口に付き合って映画館で一緒に観に来ていたこともあり、今作を観に来ることに異論はなかった。それに正直なところ、前作も前々作も、どちらかといえば退屈どころか比較的面白いと感じながら観ていたのもあり、少しだけ結末が気になっていたくらいだった。
「あの謎が解けるといいね」
劇場内の座席に腰を落ち着けると、途端に山口が浮かれた様子で話し出していた。公開されたばかりの作品で、かつ、三部作の完結編ともあり、劇場の中には自分たちを含め、三十人近くの人数が席を埋めていた。それでも百席以上ある座席は半分以上が空いていて、どうやら、この回の上映で最後列に座るのは、自分と山口の二人だけのようだった。二人でひとつの大きなバケットに入ったポップコーンを摘まみながら、本編を前に流れる予告編を眺め、次はどの映画を観ようか、なんてことを適当に話していく。何本かの予告を終えた後に、ふっ、と場内の照明が落とされ、騒がしかった客席が急に静けさを増していった。
本編が始まると、まず前作までの振り返りから話が始まっていた。分かりきっている説明を適当に聞き流しつつ、山口も僕も一言も発しない代わりに、ぽいぽいとポップコーンを口に放り込んでいく。映画館の売店ではポップコーンのフレーバーが五種類から選べたが、山口が大きなバケットで食べたいというので、飽きる心配が一番少ない塩味を今回は選んでいた。甘いフレーバーのポップコーンも嫌いではないが、食べていくほどに喉が乾いていくため、特に映画を観る時には高い確率で塩味を選択していた。映画の最中にドリンクの残量を気にしているようでは、せっかくの映画の本編に集中できなくなってしまうからだ。
前作のラストシーンまで話が繋がると、ようやく今回の本題がダイジェストではなく始められた。前作のラストは主人公が敵の組織のボスを倒した直後に線路の上に放り出され、死んだかと思わせるエピローグで終わりを迎えていたのだが、実はその主人公を味方のヘリコプターが救出していた、というシーンからストーリーが始まった。ヘリを操縦しているのは味方の幹部である女性スパイで、敵の組織に潜り込んでいた結果、ヘリコプターを持ち出すことに成功し主人公を救助するに至った、という物語の裏側が語られていく。女スパイの手によって救出された主人公は、乗り込んだヘリコプターの中で女性スパイと熱い抱擁を交わしたかと思えば、そのままキスシーンへと繋がっていく。始まってまだ数分しか経っていないというのに、もうこんな画を見る羽目になるとは、思ってもいなかった。前作、前々作でもハリウッド作品らしいキスシーンやセクシーな俳優と女優によるサービスシーンがいくつかあったものの、こんな冒頭から始まるなんて、予想もしなかった。
敢えて無表情を保ち、さっきまでと同じテンポで手を動かしては、一定のリズムでポップコーンを口の中へと放り込む。その合間も、隣の席からは無言の圧が注がれていた。何も音としては発せられていないはずなのに、隣から注がれてくる山口の視線が、あまりにも騒がしく、思わずスクリーンを見つめる両目を、じんわりと、薄目にしていく。
さっきから隣の山口がじっと熱っぽく僕の横顔を盗み見ているその理由は、きっと僕がどんな表情でこのシーンを見ているのか、気になるから、なのだろう。このシリーズに限らず、こういう類のシーンが長く続くと、決まって山口は隣に座る僕の様子を盗み見ようと、その視線を黙って向けてくる。やめろ、と以前、一度だけ話したこともあるのだが、それでも山口はバレないように目線だけをこちらに向けて僕を横目に見るようになっただけで、根本な解決とはならなかった。むしろチラチラ隠れて見られている方が、それでも隠せていない山口の視線を感じ、妙なむずがゆさを感じるばかりだった。
早く終わらないか、と念じている間も、スクリーンの俳優と女優は本部のベッドルームに二人仲良く入っていこうとするばかりだった。ああ、これはすぐには終わりにはならないな。そう苦い気持ちで目を細めていると、足元に薄い紙のような何かが落ちたような気配がした。見ればさっき山口がロビーで見つけて持ち帰ろうと手に取った映画のフライヤーで、山口が先ほどその手で三つ折りにした状態のそれは、僕の足元に隠れるようにして床の上に落ちていた。隣の山口に目を向ければ、さっきまでチラチラ人の顔を見てきていたくせに、こういう時に限って、信じられないほど画面に釘付けになった視線を動かさずにいた。見ればベッドシーンかと思った映像は、まさかのベッドの上で銃を構えあう主人公と女性スパイのシーンへと変わっていて、ストーリーが急速に進んでいることを予感させていた。
『なぜ、あのまま俺を殺そうとしなかった?』
『あそこで貴方に死んでもらっては、都合が悪いこともあるのよ。でも、知られたからには、生かしてはおけないわ』
スクリーンで交わされるセリフに、なるほど確かに山口が釘付けになるのも不思議ではないと思いつつ、このまま拾い上げずにいたら知らず知らずのうちにフライヤーを踏みつけてしまうんじゃないか、と心配になった。もし万が一踏んで汚れてしまったとしたら、それはただのゴミと化してしまうだろう。椅子の座面から身体を浮かせ、前傾の姿勢をとりかけたとき、座席の肘置きに置いていた右手の上に、何故か山口の左手が伸びてきて、僕の手の上に重なってきた。
これまで映画を観ている間に山口が、暗くて周りから見られないことを良いことに手を握ってきたことは数えきれないほどあったが、まさか、今この瞬間に握ってこられるとは、予想外の何物でもなかった。こっちは山口のために鑑賞を中断して手を伸ばそうとしているところなのに。隣に座っている男の行動に苛立ちを覚え、舌打ちしかけた舌先の怒りを何とか堪え、伸ばしかけた手をもう一度床の方へと近づけた。どうやら背中をもう少し丸めれば、片手を拘束されたままでも床の上のフライヤーを拾い上げることは出来そうだった。
横目に見た山口は映画に集中している様子で、一切こちらに視線を向けようとはしなかった。これは期待する方が無駄だ、きっと山口はフライヤーの存在になど気づいてはいないのだから。そう諦めをもって、ひとまず上半身を前に倒す。足元の暗がりでハッキリとは見えないが、きっとここで間違いないだろう、と思える場所に身体をひねるようにして、腕を伸ばしていった。フライヤーの折り目に指が触れた、そう気づいた瞬間、隣に座っていた山口が同じように頭を前に傾けてきたのが見えた。
え、と眉をひそめた瞬間、唇に熱っぽい感触が伝わった。押し付けられた唇から、山口の馴染みのある体温が、じわりと一瞬で広がってきた。前の座席の影となる暗がりで瞬きを二度繰り返す前に、山口は僕から顔を離し、何もなかった様子で背もたれに背中を押し付けて座席の上に座りなおしていった。スクリーンの光に浮かんだ山口の顔は、静かな達成感を滲ませており、その表情から、今の山口の行動が意図的であることを明らかにしていた。これは絶対、確信犯だ。そう頭に思い浮かんだ途端、目の前の男の顔を思い切り、しかめた顔で睨みつけていた。絶対に山口は意図してフライヤーを落とし、それを僕に拾わせることで、座席の陰で隠れてキスできるよう、仕向けたに違いなかった。
拾い上げたフライヤーを隣の山口に手渡すと、山口は、小声で、ありがとう、と囁いた。申し訳なさそうに微笑みながら、すぐに膝の上で抱えていたトートバッグの中にフライヤーを仕舞う。改めて考えても、そんな場所からフライヤーが自然と滑り落ちるわけがない。
ムカムカとする感情を、必死に爆発しないよう、奥歯を噛んで抑え込む。浮かせていた背中を座席に深く収め、息を吐けば、隣から申し訳なさそうな顔つきの山口が横目に見ていた。無反応を決めて座席の肘置きに手を置いたが、すかさず、その手の上に山口の手が乗せられてきた。視界の隅に映り込んだ、隣に座る男の機嫌の良さそうな顔つきに、僕は思わず、その指の先を思い切り、全力でつねってやった。
「う……っ」
小さくうめいた山口の声に、二列前で見ていたお客の頭が、鬱陶しそうに振り返った。山口が申し訳なさそうに頭を下げ、スクリーンに顔を向けなおす。その隙を狙って、二人の間に置いていたポップコーンのバケットを引き寄せ、自分の膝の上でしっかりと抱え込む。あ、と隣から山口のつぶやきが聞こえた気がしたが、そんなものは最初から存在しないものとして無視をした。次から次に口の中へポップコーンを放り込んでいる間、スクリーンの中では、主人公が女スパイのアジトから何とか脱出しようと、十階フロアの窓から無謀にも飛び出そうとするところだった。ここから本格的に面白くなりそうだ、と感じる場面に、僕はポップコーンを頬張る口元を緩めていた。この後、山口に要求する償いについては、映画が終わってからゆっくりと考えてやろう。そんなことも同時に、頭の片隅では考えていたのだった。