チッ、と隣を歩いていたツッキーが不意に舌を鳴らした瞬間、俺は頭の中で、ふと、ツッキーと最後にちゅーしたのは何日前のことだっけ、なんて、あまりにも脈絡のない小さな疑問を自分自身に問いかけていた。
いつもと変わらない部活帰りの通学路。ツッキーと二人、肩を並べて歩いていた細い道の、すっかり暗くなった道の脇の茂みから、急に一匹の黒猫が飛び出してきて、ちょうど通りかかったツッキーの目の前を無理やり横切っていった。あまりにも突然のことにさすがのツッキーも驚いて、苛立ち交じりに、たしかに一度、反射に近い速さでその場で、舌打ちをしたのだった。
「……驚かせないでよ」
小さく文句を付け足したツッキーの、その舌打ちの響きがあまりにも鮮やかで軽やかだったせいもあって、その音から俺は何故か、ツッキーとちゅーをした時、たまに聞こえてくる、唇から生まれる、あの、ささやかな音の感触を思い出していた。そういえば、最近ツッキーと、ちゅーしていない。テスト期間で自粛しようと約束していたのが二週間前のことで、もう、とっくにテスト期間は終わっているのだけれど、そこから何となく俺もツッキーもバタバタと忙しくしていて、二人そろって顔を合わせるタイミングが持てずに今日まで時間が過ぎてしまっていた。ツッキーは絶対に誰にも見られない、と確信できる瞬間じゃないと俺とすんなり、ちゅーしてはくれない。もし強引にお願いしてちゅーした時には、そこから最低丸二日は目も合わせてくれないくらい、ものすごく不機嫌になってしまう。それに、今日は、この後すぐに、また俺は嶋田さんのところに行ってサーブの練習をする予定なのだ。そのことは、ついさっき、ツッキーにも部室を出てくるタイミングで俺から直接もう伝えてあって、今更それを撤回するのは、到底、無理な話だった。
「どうしても一緒に行きたい、っていうなら、来週の日曜に付き合ってあげてもいいけど」
気を取り直して歩き始めたツッキーが、俺に向けて返事をしてきた。それはさっきまで俺が持ちかけていたスイーツビュッフェの誘いに対する反応の続きで、さっき黒猫に遮られたはずの言葉を、ツッキーが改めて俺に聞かせてくれているのだと、俺は数秒かかってから、ようやく理解していた。駅前に出来たスイーツビュッフェの店は制限時間がない上に、いつでも美味しい苺のスイーツが揃えられていると聞いて、絶対ツッキーと一緒に行きたい、行ったら楽しいに決まっているよ、と俺から提案したばかりだったのだ。
「あ、うん、じゃあ、そうしようよ、来週の日曜に」
俺は頭の中に広がる余計な考え事を必死に無視しながら、ツッキーの言葉に返事をした。やっぱり苺スイーツの情報は効果的だったらしい。ツッキーが、こういう誘いに二つ返事で了承を示すのは、ものすごく珍しいことだった。
「すごく楽しみだね」
意識して笑顔をツッキーに向けながら、俺は話を続けていた。ツッキーと二人、デートの約束が確かに決まった事実はものすごく嬉しい、だけど、今この瞬間の自分にとって、その未来は、心から嬉しいと手放しに喜んで浮かれてしまうほどの気持ちにまでさせてくれはしなかった。頭の中には、ちゅーした時に目にするツッキーの艶っぽい視線と吐息の間隔が蘇ってきていて、ああ、今すぐちゅー出来たら良いのに、なんて気持ちが大きく膨らんで、止まりそうもなかった。隣から見上げたツッキーの横顔はどこか嬉しそうで、その唇はほんの少し、いつもより口角を引き上げている。ああ、ツッキー嬉しそうだなぁ、今、その口元に触ったら、すごく温かくてやわらかいんだろうなぁ。
ハッとした俺は心の中のイメージだけで、自分の頭をブンブンと左右に振った。いけない、いけない、考えないようにしろ、と言い聞かせているのに、これじゃ逆効果でしかない。自分の頭の中のよこしまな考えを押しつぶすように、来週の日曜にツッキーと行くことが決まったスイーツビュッフェの店のメニュー一覧を頭の中に思い描いて、それだけで考えがいっぱいになるように、必死に集中していく。
「いろいろ、たくさん食べられるといいね」
表情を崩さないよう、必死に顔に力を込めながら、俺はツッキーに話しかけていた。ツッキーは俺のことなんて気にしない様子で、前だけを向いたまま、一定の同じペースで歩き続けていく。
「でも、いくら時間無制限って言われても、一度に食べられる量なんて、程があるでしょ」
鼻で笑ったツッキーは、わずかに唇を尖らせ、目を細めた。その唇の艶が街頭の光をたしかに反射して、暗い道の上でもはっきりと俺の目にも映っていた。ツッキーの唇って本当に、いつちゅーしても、ぷるぷるでやわらかくて、気持ちいいんだよなぁ。そこに、ちょっと歯を立てたりしたら、ほんの少しだけビクッてなって、そんなツッキーの反応はいつだって可愛くて、普段クールでカッコイイツッキーが、そういう瞬間だけ俺に特別な顔を見せてくれるのを目の当たりにすると、俺は決まって、目の前のツッキーの身体を、ぎゅっと抱きしめてあげたくなってしまう。次は、いつ、ちゅー出来るのかな。もし、今ツッキーがちゅーしてくれたなら、この後のサーブ練習のやる気も、一気に倍増するに決まっているんだけど。
「さっきから、人の話、ちゃんと聞いてるの?」
目の前いっぱいに近づいてきたツッキーの顔との距離感に、俺は思わず、その場で足を止めていた。
「えっ、あ、ごめん、聞いてなかった……!」
はぁ、とツッキーが息を吐く。その息が頬のあたりに被さってきて、その温度に、つい、ドキリとしていた。
「待ち合わせは午前の時間で良いのか、って聞いてるんだけど」
「あ、うん、あ、そ、そうだね、ツッキーがそれで良いなら、俺は、全然、大丈夫だよ」
とっさに何度か首を縦に振る。その動作が自分でも不自然な気がして、笑顔を浮かべながら自分の動きを制止した。じと、と見つめるツッキーの顔は俺の様子を窺っていて、俺は、自分の頭の中が読み取られていたらどうしよう、と変な汗をかきはじめていた。
「今日、サーブ練、行くんじゃなかったの?」
「え? あ、うん、行く……けど、なんで?」
渋い表情のツッキーは俺の顔を見つめたまま、今来た道の方を指さして言った。
「しまだマートへの分かれ道、もうとっくに過ぎてるけど」
え、と俺は声を上げて、今自分がどこを歩いているのか、とっさに辺りを見回した。ツッキーに指摘されたとおり、しまだマートに向かう道の分岐点は、もうはるか後ろの方に遠ざかっていた。
「あ、本当だ、ごめん、ツッキー……俺、行かなきゃ」
回れ右をして後ろを振り返った俺に、ツッキーは呆れたように首を振った。
「何、考えてたの?」
言われて、ドキリ、と心臓が大きく震えた。
「ううん、何も。何も考えてなんか、ないよ、」
「嘘。さっきから人の話聞いてないどころか、こっちの顔をじろじろ見て……何か言いたいことがあるんなら、さっさと言えば?」
じっ、とツッキーの目が俺の目を上から覗き込んで、目を逸らせないよう圧をかけてくる。言え、と言われても、今ツッキーに素直に伝えたところで、「また今度」と躱されるに違いない。それなら黙って今日は別れを告げて、またチャンスが来た時に、実は、と話をした方がスッキリするんじゃないか。
悶々と考え込んでいる俺の顔を見つめていたツッキーが、しかめ面のまま、文句みたいな調子で言葉を続ける。
「隠すってことは、それほど都合の悪いことを考えてた、ってわけ?」
そうじゃないよ、と頭の中で否定するけれど、変に否定ばかりしていたら逆にツッキーに深読みされるんじゃないか。舌の上で、言うべきか言わないべきか言葉を転がして煮え切らない態度の俺に、目の前のツッキーがどんどん苛立って機嫌を悪くしていくのが、手に取るように分かる。
どうしようかと迷う俺に対し、とうとう痺れを切らした様子で、ツッキーが二度、首を横に振った。はぁ、とため息を漏らし、キョロキョロと周りを見回したかと思うと、ちょうど隣にあった公園の入り口に向かって、黙って急に歩き出していた。え、と目を丸くする俺に、振り返ったツッキーが、来い、と言わんばかりの様子で手招きをする。仕方なくツッキーの後をついていけば、ツッキーは、公園の入り口に作られた植え込みの低木の裏に向かって回り込み、その植え込みの陰に隠れるようにして膝を折った。しゃがみこんだツッキーの視線が投げかけられたと同時に、その長い右手が俺の手に伸びてきて、強い力で一気にl、隣にしゃがみこむように引き寄せられた。近づいた俺の耳元に、ツッキーがそっと、言葉を囁く。
「どうせ、僕とキスしたい、とか、そういうこと、考えてたんじゃないの?」
言い当てられた瞬間、ドキリと胸が震えて、俺は思わず息を飲んでいた。何で分かったの、と言いかけた俺の口を、伸びてきたツッキーの右手が覆ってくる。塞がれた口でふがふが喋りかけた俺に、ツッキーが囁き声で注意をする。
「こんなところで、大きな声、出さないでくれる?」
こくこく、と首を小さく振った俺の顔を見て、ツッキーが俺の口を塞いでいた右手をそっと離す。小さく背中を丸めて膝を抱えたツッキーが、俺の顔をじっと見つめてくる。これは、まさか、と様子をうかがって身動きをとれずにいる俺に向け、数秒の間を置いて、待ちきれない、といった調子で、ツッキーから言葉を囁かれていた。
「……したい、んじゃ、ないの……?」
やっぱりそういうことなんだ、と頭の中で叫び声をあげ、俺はバクバクする心臓が身体の中から外に飛び出てこないように、自然と自分の手のひらで自分の心臓を服の上から押さえつけていた。
「え……ここで、いいの……?」
いくら陽が落ちて暗くなっているとはいえ、こんな外で、誰がいつ通り過ぎるか分からない野外で、まさかツッキーの方から、そう言われるなんて、思ってもいなかった。もしかしたらツッキーは、さっきからそのつもりで、この植え込みの陰に手招きして俺を誘ったのだろうか。そうかもしれない、と仮説が確信になる頃、俺はようやく、隣にいるツッキーの肩に、そっと自分の手を載せていた。目の前のツッキーは、ぎゅっと目を閉じ、俺がするのを待ち構える姿勢になっている。これまで数えきれないくらい何回もちゅーしてはいるけれど、こんな状況でするのは、本当に生まれて初めてのことだった。
「いいから……するなら、さっさとしてよ」
目を閉じたままのツッキーが眉間にシワを寄せながら、そう呟いた。うん、とうなづき、俺はいつも以上にぎこちない動作で、その距離を詰めていった。ツッキーの吐息を肌で感じる距離まで近づいたところで、ドキドキする心臓の振動を感じながら、俺はツッキーにちゅーをしていた。ふに、とぶつかった唇は、やっぱり、いつも通り、ものすごくやわらかくて、この世の物とはまるで思えなかった。
そっと離れて目を向ける。薄くまぶたを上げたツッキーと、目と目が合う。その目元に灯った熱の気配に、引き寄せられるみたいに、もう一回、俺は顔を近づけていた。重ねた唇の先で、ツッキーの唇の感触を確かめるみたいに軽く吸い付いてみる。ちぅ、と音がして、じわりとした熱が全身に広がっていく。身体を固くしたツッキーの背中に手を伸ばし、引き寄せながら、さらに深く奥を探るために唇を押し付ける。緩んだツッキーの唇の隙間から押し込んだ舌の先が、ツッキーの舌の先と触れて、俺はその表面をなぞりながらこすり合わせていった。ん、と熱っぽい、吐息みたいなツッキーの声がして、俺は気持ち良さにぼうっとしてくる頭の中で、ただひたすら、ツッキーの可愛さにうっとりしていた。
とん、と胸のあたりをツッキーの手に軽く叩かれ、ハッとしながら俺はようやく顔を離していた。目と鼻の先にあるツッキーの目は、潤みながら俺の顔を睨みつけていた。
「練習、遅くなっても、いいの……?」
言われて慌ててスマホで現在時刻を確認した瞬間、熱に浮かされていた頭から、一気に血の気が引くようだった。
「うわ、ほんとだ……っ、ごめん、ツッキー、俺、行かなきゃ…! じゃあね、また明日!」
その場に立ち上がり、駆け出そうと、一歩、足を前に出した俺に、ツッキーが声をかけてきた。
「言っておくけど、今日だけ、だから」
聞き返そうと振り返った俺の視界に、暗がりでもわかるくらいに真っ赤な顔をしたツッキーが言い放っていた。
「我慢の限界だったのは、こっちも同じ、で……したい、って思っていたのは、お前だけじゃない、ってこと、だから」
「…………?」
その言葉の意味を上手く汲み取れないでいる俺に、恥ずかしそうな顔のツッキーが我慢しきれない、と言いたそうに、こう付け足した。
「いいから、……練習、行くんでしょ?」
ハッと息を飲んで俺は大きく手を左右に振った。
「そうだった、ごめん、じゃあね、ツッキー!」
公園の入り口に残したツッキーに背を向け、全速力で走りだした後も、俺は熱の余韻の残る唇の感覚に、ぼんやりと意識を向けていた。ツッキーの言葉の意味も気になったまま考え続けていたのもあって、しまだマートにたどりつくまでの間、暗い細道を二回も転びそうになっていた。その日の練習は散々な出来だった。でも俺はあえて、次の日、ツッキーのおかげで練習を頑張れたのだと、嘘の報告をちゃっかりしていたのだった。