「ツッキー!」
風に乗って響いた声が、胸の奥を貫いた。慌てて駆け寄ってくる高校生の、現在進行形の山口の姿が、一秒ごとに大きくなり、近づいてくる。
「どうしてここにツッキーがいるの?」
上気した頬を緩め、不思議そうに眼を丸くして僕を見る。その表情が、自分の生み出す幻や想像だとは到底思えなくて、確かに今山口が目の前に存在しているのだと、強くそう思った。
「それは、こっちの……セリフ、なんだけど、」
軋む胸からこみあげてくるものが、喉を締め付けて、上手く声が出せなかった。こもったような僕の声を聞き取った山口は、照れくさそうにはにかむと、さっき立っていたあたり、真後ろの方向へと首を向けていた。振り返った先、さっきまで山口が向かおうとしていた方角のあたりには、見間違えるわけもない、山口のお母さんが心配そうに立ってこちらを遠目に見守っていた。そのお母さんに向け、山口が叫ぶ。
「ちょっと待ってて」
大きく手を振ってから、またこちらを向いた山口の目が僕を見る。いつもと変わらない、平然とした山口の顔つきに、ふつふつとこらえていた怒りの感情が膨らんでいくのを感じていた。
「いなくならない、って、言ったくせに……」
「え?」
睨みつけられている今の状況が理解できない、といった様子なのか、少し困った様子で山口は眉をひそめていく。その仕草や反応の呑気さに、ますます腹の内の感情は煮えたぎっていき、僕は我慢しきれずに山口の胸倉をつかんでいた。
「お前、いきなり、いなくなったりしない、って、そう約束したくせに……!」
「ええっ、……あっ、もしかして、その、ツッキー、俺のこと、まさか、ずっと、探してたり、した……?」
「それが何?」
「いや、その、だからってまさか、こんな山の方まで来るとは思ってなかった、っていうか……その……ごめん! 説明しなかった俺が悪かった、ツッキーにだけは言わない方が良いかなって、そう思ってたから、その……」
申し訳なさそうに目を伏せた山口の仕草に重なるようにして、気まずそうに顔をそむける部活の先輩たちの顔が頭をよぎった。
「僕以外の皆には、説明してた、っていうわけ?」
掴まれた胸をかばうように頭をそらしている山口の目と目が合う。苦し気に上向きに上げられたその顎が、ほんの少し上下して、僕の問いかけを認める意思を示していた。
「は?」
怒りのあまり、僕は手を放していた。解放された山口はふらつきながら、自分の足が地面をとらえていることを目で確認してから僕の顔を見上げていた。この数日、蓄積していた違和感が記憶とともに頭の中をよぎっていく。
『日向、約束、覚えてるだろ?』
そう尋ねた菅原さんに対し、
『え、俺、山口のことなんて、何も言っ、』
そう日向は口にして、言葉を遮られていた。それは、つまり。
「僕に事情が伝わらないように、全員に口止めしてもらってた、ってこと?」
気まずそうに唇を噛んだ山口が、横目に僕の顔を盗み見る。その表情はどうにも僕の質問を否定するものではなくて、僕はその事実にカッと頭の奥に火が付くような、そんな錯覚を覚えていた。
「で、その事情ってやつを、お前は今後一切、僕には一言も説明しないつもり? そんなの僕が許すと思うわけ? はぁ? なにそれ、そんなの、」
「あああ、ほんとごめん、もう大丈夫だから、話せるから、だから、それで許してよツッキー、ね!? 今回悪かったのは全部俺だから、心配かけたのは俺のせいだから、そんな、ツッキーが俺が一週間いないだけで心配して探しに来るなんて思ってもみなかったっていうか俺の考えが間違ってたっていうか、」
「言い訳はいいから、さっさと、説明!」
「はい! ごめん、ツッキー!!」
その場で気を付けの姿勢で背筋を伸ばした山口が、ふっと息を吐いて身体から力を抜き、観念した様子でようやく話しはじめた。
「俺、……実は、小さいころ、ちょっと珍しい病気になって……それを治すための手術をしたことがあったんだ。その病気って、日本でそんなに事例がなくて、子供だとなおさら珍しすぎるものだったらしくて。病院の方から、記録のために、術後経過のデータを残す協力をしてほしいって言われて、それでずっと、毎年決まった時期に、検査入院をしてたんだ。今年がその手術から十年目の節目の年で、もうこれで記録のための検査入院は最後、って聞かされてはいたんだけど、いざ説明を聞いたら、その最後の検査ってやつが、今までよりちょっと面倒で時間のかかるものだから、それで少なくとも一週間は入院する必要があるって話になっていて」
つぶやくように、「それで」と口にした山口の目が、こちらの目をちらっと見た。
「もうその病気は完治してるし、どこかほかに悪いわけでも何でもないし、検査のための入院も病院の都合のためだったし、ツッキーに病気の話を今更するのもなぁ、って思って……」
「だから、って、説明もなしに……っていうか、僕以外の人になんて説明したっていうの」
「それは……しばらく地元を離れて遠いところに行かなくちゃいけない、詳しいことは帰ってきてから説明する、って、それだけ」
「そんなんで納得しないでしょ、普通」
あー、と渋い声を漏らし、山口はむずがゆそうに顔をしかめた。
「うん……でも、皆、"山口がそう言うなら"って……」
「"それなりの事情があるだろう"、って?」
そう、とうなづいた山口の口ぶりと、話に聞いて思い浮かぶ知人たちの様子に、僕は深いため息を吐き出していた。山口の人徳の成せる業と言ってしまえば、それだけのことなのかもしれない。
「僕にも同じ説明をしていけば、まだ良かったのに……」
呆れてつぶやいた僕を見て、山口が申し訳なさそうに、こう続けた。
「ツッキーだけは、そんな説明じゃ納得してくれそうにないなって、そう思って……それで」
「だからって何も言わないまま、突然一週間もいなくなるなんて、馬鹿じゃないの」
再び睨みつけた僕の視線を受け止めて、山口は、うん、と確かにうなづいてみせた。
「俺が馬鹿だった。ツッキーが俺のことを探して隣町の、この山の上の病院の近くまで来るなんて思ってもみなかったし、退院するタイミングで偶然会えるなんて想像もしてなかった。それに……」
「それに、何?」
すっかり薄暗くなった空を見上げた山口の、その唇の端が、ほんの少し嬉しそうに緩んでいくのを、僕は見過ごすことが出来なかった。
「こう言ったらツッキーは怒るのかもしれないけど、俺、ツッキーに心配してもらって、嬉しいなぁ、って今、そんな風に思ってたりする」
何それ、とつぶやいた僕の顔を見つめた山口の表情は、すっかりいつもの、間の抜けた笑顔に移り変わっていた。
「俺、もう黙っていなくなったりしないから。たとえツッキーが地球の裏側にいたとしても、今度は、ツッキーに真っ先に説明してからにするから。だから、ツッキーはこれからずっと安心してていいよ」
「普通はここで、もうどこにもいなくならない、って約束するのが筋なんじゃないの?」
え、と笑って聞き返した山口が、そっか、とつぶやく。
「じゃあそれで、指切りげんまん、しよ?」
差し出された小指に小さく舌打ちをしながらも、僕は大人しく自分の右手の小指を伸ばして山口の指へと絡めていった。
「ゆーびきり、げんまん……」
「ちょっと待って」
歌いだした山口の声を遮って、僕は唇に残っていたそのメロディを歌にして口ずさんでいた。山口の作り上げた、たった八小節の短すぎるメロディ。
ああ、と気づいた山口が僕の声に合わせて歌声を重ねていく。繰り返し響くそのメロディは、二人の間で重なりあった末に、辺りを暗くしていこうとする夜の風の中へと溶けていくようだった。