部活終わりの部室棟の前で西谷と田中が至極真剣にじゃんけんをしている、ただそれだけの日常の風景だと見ていたら、チョキで勝った西谷が、パーの手を震わせる田中にこう言った。
「忘れていないよな龍、勝ったからにはこの俺が潔子さんを守ってみせるぜ!!」
 勝ち誇る西谷の口から突然出てきた自分の名前に、戸惑いは隠せなかった。てっきりいつものように、ガリガリ君をかけてとか明日の昼食の買い出し当番決定戦とか、そんな小さな勝負をしているものだとばかり思っていた。それなのに何故私の知らないところで私を巻き込んで勝負しているんだろう。
 勝ち誇る西谷の横で、田中は膝を折り、自分の出した手を恨めしそうに見つめている。かと思ったら、大袈裟に立ち上がり
「そうだな、男の勝負に二言はないぜ、頼んだぜノヤさん!」
「おぅ、まかせろ!!」
 がっしり手を取り合って盛り上がっている様子は、確かにいつも通りの光景なのだけれど。何故そんなことになっているのか、全く想像がつかない。
 あっけにとられている私を見つけた西谷が満面の笑顔で駆け寄ってくる。それはまるで飼い主を見つけた犬のようで、あまりの勢いに私の口から出るべき言葉も押しやられてしまう。
「潔子さん、今日は俺がついていきます!」
「え…」
「俺がしっかり家まで見届けますから!」
 どんな言葉をかけたら良いのかさっぱり分からず口を閉ざしていたら、
「今日清水の家の近くに不審者出たって、HRで聞いただろ?」
知らないうちに後ろに立っていた菅が、のんきに笑う。確かにその話は担任から連絡されて知ってはいるけれど、西谷と田中の勝負に何の関係があるのだろう。
「さ、潔子さん暗くなる前に帰りましょう、俺が潔子さんを守ってみせますから!」
「任せたぞノヤさん、俺の分まで潔子さんをお守りするんだぁぁ!!」
 おう!と熱くなる二人の肩を澤村の手が抑え込む。
「西谷、お前が不審者になったら元も子もないからな?」
 無言の圧力に負けた西谷の返事が高らかに夕日の空に響いて、私はますます言葉を見失ってしまった。誰一人として私の意見を聞こうとしていない。
 結局、いつもの帰り道に西谷だけがついてくることになった。他の部員にからかわれながらも、どこか嬉しそうな様子に、私は今さら「一人で帰る」と言いだすことができなかった。すっかりタイミングを逃してしまったし、なんとなく気がひけた。
 高校の門をくぐって固まって歩き始めた部員たちが、一人、また一人とそれぞれの家の方角へ分かれていく。そこまでは何も変わらない、いつもの光景なのだけど、いつもだったらこのまま一人になる分かれ道に今日は西谷がいる。
 人通りの少ない田舎道は、商店街を抜けて畑や林を抜ける細い道に続いていく。遠くの暗がりから犬の遠吠えが耳に届き、離れたところにある家の明かりが小さく灯る。道の脇の草むらでガサガサと音がして、何か動物でもいるのかと想像してしまう。通い始めて三年目、歩きなれた道といっても、何かあっても大丈夫と言い切れる道ではない。
「潔子さんの安全は俺が守りますから!」
 そう笑って告げた西谷は、黙ったまま私の半歩先を歩いている。私よりも小さな体がゆっくりと先導して、時々私がちゃんとついてきているか横目で見ている。別に一人でも大丈夫なのに、と言いたい気持ちもあったけれど、口にするのは悪いような気がした。どこか西谷は嬉しそうだし、他の部員に比べれば私も西谷も高校から近いと言える距離に家があるから、そんなに遠回りでもないのかもしれない。
 でもそうだとしても遠回りには代わりがないし、なんだか迷惑をかけているような、かけさせられているような、そんな変な気持ちがして胸のあたりがもやもやとした。いつもだったら早足に15分くらいで着く距離なのに、なんだか今日は何倍もかかっているような気がする。さっきからふり返らない西谷の表情は一切分からないし、普段は騒がしいくらい話しかけてくるのに、今は何故か黙ったままだ。
 どんな顔で歩いているんだろう。気になって意識的に歩幅を広くする。私を見上げた目が見開いて、口をぎゅっと結んで下を向く。さらに広い歩幅で前を行く耳元が、少し赤い。薄暗い道で見間違いともとれるようなその色に、私は目をとめた。
 ずんずん歩いていく小さな体についていく。私の前にある肩はせりあがっていて、ひじに力がこもっているのは一目瞭然だった。肩の張った学ランの袖から出た手は指先が変な形に広がっていて、目が離せなかった。その指先は私の方に向かっていて、何かを訴えているように見えた。
 私は何も考えず、空いている左手をのばして、その右手をつかんだ。今まで風を切るように前を歩いていた体が、いきなり急停止した。どうかしたのかと思って顔を覗き込む。西谷の視線は私の左手、つまり西谷自身の右手に注がれていて、その目はまんまるに見開かれていた。
「きききき、きき、潔子さん、ここここれは一体」
 震える唇に合わせて震えた西谷の声が、私に問いかける。
「繋いでほしそうに見えたから」
 私の一言に、繋いでいた手と手の温度が急に上昇する。西谷の顔が変に歪みはじめて、私は何かいけないことをしてしまったのだろうかと、あわてて手を離した。西谷は自分の右手と私の顔を何度も見比べては、口をぱくぱくさせている。
「嫌だったなら謝る、ごめんなさ」
 そう言いかけた私の手を、今度は力強く西谷の右手が覆った。熱い掌の温度が、手の甲を通じて伝わってくる。
「俺、実はそう思ってたんで!こうやって、潔子さんと手をつないで歩いてみたいって!」
 ぎゅっと強く握った西谷の目に、嘘の色はなかった。加減をしらない、決して大きくはない掌が私の手を、心の奥をつかんでいる。
「分かった」
 真剣すぎる瞳にそっと微笑んで、私は自分と同じくらいの大きさの掌を握り返した。真っ赤な顔をした西谷は、照れくさそうに、でも嬉しそうにはにかんで、私の手を強くひいた。
「先を急ぎましょう、遅くなるといけないですから」
 ぐっと力強く引く手は最初に比べたら何倍も頼もしくて、私は一人じゃなくて良かったのかもしれないと思った。先を急ぐ西谷に口元を緩め、そんなに急がなくても良いのにと囁きながら、強く繋がれた左手に目を向けた。