施錠し終えた部室の鍵を失くさないように鞄のポケットの奥底に押し込んで、念を込めて鞄の上からたたく。すっかり暗くなったグラウンドには運動部の姿は無く、体育館の向こうに浮かび上がる校舎の影も一階の職員室の明かりをのぞいて他の教室は全部明かりが消えて真っ暗になっている。
 部室棟の暗い通路と階段を駆け足で降りたところで、
「あ、やっと来た」
 先に帰ったはずの月島の野郎が柱に寄りかかって立っていた。相変わらず山口とくっついて「お先でーす」と出ていったくせに、どうしてこんなところにいやがるのか。
「なんだよ」
 何の用かとわざわざ聞いてやったのに、月島は「別に」とすかして笑った。いつ見てもひょろひょろと長く細い体を包む学ランの黒さが、当たりの暗さに混じって目ににじむ。ぼんやりとしたその黒さを揺らしては、傾けていた体を起こす。
「ちょっと、付き合ってよ」
 一時間で良いからさ、と背中を向けた月島は振り返りもせず校門へと歩き出す。「は?」と声を上げれば、2メートル先でやっと足を止めて振り返った。
「別に、この後予定があるわけじゃないでしょ?王様のことだから、帰ってどうせ筋トレして寝るだけだろうしさ」
「何が言いたいんだよ」
 俺の顔を見ていた月島は、目が合ったと同時にフッと笑った。図星でしょ、と言い捨てたかと思えば、そのまま校門に向かって一度も止まらずに、また歩き出しやがった。何なんだよ、と吐き捨てながら、仕方なくその背中の後を追った。


 月島に連れられた行き先は、学校からかなり離れたところにあるカレー屋だった。カウンター席に通されると同時に月島の野郎は、俺が座るのも待たずに勝手に注文しやがった。
「ポークカレーとシーザーサラダひとつずつ、カレーにトッピングで半熟タマゴください。以上で」
 オイ、と声をかけたが月島は聞こえないふりをして、渡された水のグラスをひとつずつ自分の手元と俺の目の前に、それぞれ置いた。なんなんだコイツ、と舌打ちをする。口をつけたグラスの水はキンキンに冷えていて、部活帰りの乾いた喉にはものすごく美味く感じる。
「今日に限ってお腹空いてないとか、そういうわけじゃないでしょ」
 俺が空にしたコップをカウンターに置いたタイミングで、澄ました様子の月島が口を開いた。カウンターに肘をつき、組んだ指の上にあごを載せてカウンターの中へ顔を向けたままで、だ。どうしてこいつは他所を見ながら話したがるのか、と苛立ちながら適当に返事をする。
「あぁ」
 そうしているうちに、月島の注文した料理が運ばれてきた。カレーです、と店員が差し出した皿は月島の目の前に並べられ、
「あ、カレーは僕じゃなくて、こっちで」
 何故かその一言で俺の目の前にスライドされる。何のつもりだ、と目を向ければ、当然の流れだと言いたげな月島は早くもフォークを千切りキャベツの中へ差しこんでいる。
「オイ、」
「え?」
「食わねぇのかよ」
 俺の目の前で湯気を立てているポークカレーを見るわけでもなく、人をバカだと言いそうな顔つきで、
「家に帰ったら夕飯があるのに、そんなガッツリ食べるわけないでしょ」
 しかも、その最後に「王様じゃあるまいし」と言いやがった。こいつカレー屋に何しに来たんだよ、と言いたい気持ちになったのはもちろんだが、目と鼻の先でカレーの良い匂いが漂ってくる状況で、腹の虫の方が先に声を上げた。
「ほら、やっぱりお腹減ってるんでしょ。せっかく僕の奢りなんだから、冷める前にさっさと食べたら?」
 奢りなんて聞いてねぇよ。
 文句を口に出してこれ以上月島とあーだこーだ話すのは面倒になった。とりあえず誰も食わないなら勿体ないから食うしかないだろ、そう思ってスプーンを手に取った。
「後で返せとか言っても知らねぇからな」
 一口頬張ったら、あまりの美味さに止まらなくなった。そりゃ自分の大好物を部活で動き回って空腹感だらけのこの時間に目の前に出されたらそんなの美味いに決まってる。前にもこの店で食ったことはあるけれど、その時の何倍も美味いと感じるのは自分が支払う必要がないと分かっているからだろうか。ただ、それが月島の奢りってところが引っかかるところだが。もしかしたらこれが別のヤツの奢りだったらこの何十倍も美味いと感じながら食べるのかもしれない。
 月島は、俺がカレーを食べ終えるまで、もそもそとつまらなさそうに野菜の山を口に運んでいた。どう見ても腹が減っているわけではなさそうなその態度に俺はますます、意味わかんねぇと心底、思っていた。皿の中をきれいに食べつくして、おかわりの水を飲みほした。今日の夕飯はなんだろうか、と考える胃袋は、まだ半分以上の空白を残している。
「で、ちょっとは元気でたわけ?」
 人の顔を横目で見てきた月島が口を開く。
「は?何だよ、それ」
 相変わらずつまらなさそうにフォークの先に刺したレタスの欠片を上下に揺らしながら、頬杖をつく。
「いや、王様にしては珍しく、元気なさそうだなー、なんて思ってさ」
「何だそれ」
 え、と大きく口を歪ませて振り向いた月島と目が合う。
「何かあったの、とか、こっちはわざわざ聞こうとしてあげてたんだけど」
 じぃっと覗きこまれた目線にうながされるようにして今日一日の自分自身を振り返ってみたが、何ひとつとして思い当たる出来事も理由もその可能性ですら頭に浮かんでは来ない。しばらく考えた上で、
「何も」
「はぁ?何それ、イミフメイ」
「そう言われたって、何もねぇよ。つか、そっちが勝手に人を落ち込んでるって決めつけただけだろ」
 ぐ、と口をつぐんだ月島が俺を睨みつける。その顔はうっすら赤くなっていて、オイそんな顔して怒ったって俺は何もしてねぇよ、と睨み返してやった。
「あぁ、奢って損した」
 はぁー、とあからさまなため息をつかれ、イラッとした。視線をそらした月島の手がフォークの先についていた最後のレタスの欠片を口へと運ぶ。
「てっきりこっちは天変地異レベルの出来事かと思ってたのにさ、そりゃそうか、王様なんかがそんな簡単に落ち込むわけないもんね、あー、馬鹿らしい」
 ぐしゃぐしゃと噛み砕いて飲み込んだその顔は苦々しく、けれど赤さは次第に増しているように見えた。文句を言っているけど、つまりコイツは、俺にカレーを奢るためにわざわざカレー屋まで来たってことらしい。わーわーグチグチ言いながら、未だに席を立とうとしない月島の横顔を見ながら、俺は小さく口にした。
「サンキュ、」
 ガタタッと椅子を揺らして月島が大きく目を見開いてこっちを見た。その慌てぶりに自分が変なことを言ったのかと、居心地が悪くなる。
「え、王様、やっぱり何か凹んでたんだ?」
「ちげぇよ、何にも無いってさっき言っただろ。けど、わざわざ励まそうとしてくれてたんだなって。山口だけ先に帰してよ、」
 動揺しているのか、月島はあわてて水の入ったグラスに口をつけた。冷静さを装って質問を返したんだろうが、それに対する俺の返しを聞きながら、さらに肩を震わせてこっちを凝視してきた。
「何、王様がお礼言うとか、気持ち悪いんですけど」
 鼻で笑い、必死にいつもの調子を取り戻そうと嫌味を言ってくるが、その威力はいつもの半分以下だ。
「お礼くらい言うだろ、普通。俺のために、って優しくしてくれた相手には」
 言葉につまって月島の目を見たら、目と目が合った途端、唇を噛んだ月島の顔がさらに赤く染まった。普段のこいつからは全く想像も出来ないその顔つきに、胸の中が騒がしく震えた。
 気が付いた時にはカウンターに置いた月島の右手に、自分の左手が触れていた。伝わるか伝わらないかの距離で、月島の手が熱っぽくなっていくような気がしてならなかった。重なったままのお互いの目線をそらせないまま、月島がようやく、
「影山、」
 ぼそりと告げたその声は、
「米粒ついてる」
「あ?」
「お勘定おねがいしまーす」
 立ち上がった月島は鞄の肩ひもを掴んで椅子から立ち上がった。スタスタと足早でレジに向かい、さっさと店の外へ出ていこうとする。
 ちょっと待てよ、と口の端を左手で拭いながら右手で鞄を持ち上げ、店の外へ急いで出る。店の外では、相変わらず自分一人だけで歩き出していく月島の背中があった。
「オイ、待てって」
 声を張り上げて呼び止めようとしたが、月島は足を止めることも振り返ることもせず、背中を向けたまま掲げた右手を左右に振った。
「王様、まだ満腹じゃないんでしょ?早く家帰ってちゃんとした夕飯食べなよ」
 じゃあね、と一方的に告げられた声に、俺は大げさに舌打ちをした。月島が歩いていった先には、夜の空に散らばる星が瞬いていた。左右に小刻みに揺れながら離れていくその背中は、部室棟で呼び止められた時よりもはるかに黒く、夜の暗い方へと紛れていくようで、黒の輪郭の中に隠されてるその何かを、表には見えないように覆い隠しているようにも思えた。
「意味わかんねぇ」
 俺はもう一度、わざと舌打ちをした。二度目の舌打ちは、自分の内側の良く分からないソレに対してで、その答えを俺は持ってはいなかった。