日向が体育館の片づけを終えると、背中ごしに呼び止められた。振り返ればそこには右手を突き出す影山が立っていて、体育館の中に他の部員は一人も残っていなかった。誰もいない体育館は静けさに包まれて、空気が張り詰めているようだった。
 目を合わせながら、日向は唇をかみしめている影山の顔を見て首をかしげた。用事があるなら早く言えばいいのに、一体何なんだ。「ん」と短い声とともに、差し出された右手がほんの少し近づけられる。日向のものよりも一回り大きなその手は、日向の胸の前で軽く指を広げた形で静止している。その形は、握手を求める時のそれに見えた。
「手」
「え?」
「手出せ」
 ずいっとさらに影山の手が近づく。日向は何を意図しているのかさっぱり分からず、差し出された手と影山の顔を順番に見ては頭の上に「?」を浮かべる。その様子に苛立ちを覚えたのか、痺れを切らした様子で影山が声を荒げる。
「いいから手ェ出せって言ってんだよボゲェ」
 耐えきれないと言わんばかりに、影山は差し出していた右手で日向の手首を掴んだ。強引に引っ張りだした左手を逃さないよう瞬時に両手で挟みこむ。じわり、と右手と左手の間に熱が広がり、すぐに冷えていく。
「な、なんだよ」
 引け腰で見上げた日向の顔は練習で出たものとは違う汗を滲ませている。どくどくと緊張で騒ぐ心臓と乾きはじめた喉に戸惑いながら、必死に唾を飲み込む。喋る準備をしていると、包んでいる左手が離れて抜けだそうとする。
「うるせぇ、だ、黙ってろ……!!」
 とっさにそれだけが口から飛び出した。あまりの気迫に、日向は唇を閉ざした。その様子にチリチリと胸が焦げていくような気がして、目をそらす代わりに瞼を閉じた。掌の感覚に神経を集中させる。どんどん冷たくなる日向の手に心細さを感じ、願うように手に力をこめた。
「影山……?」
 いつもは騒がしい彼の様子がおかしいと、不安になった日向は覗きこんで見上げた。閉じられた瞼には力がこめられていて、深い眉間のしわが苦しそうに見えた。震えた唇から、か細い声が漏れる。
「お前は、俺を信頼してるか……?」
「?……お、おぅ」
 唐突ながら真剣な言葉に、日向は曖昧な返事を返すことしかできなかった。その時、じわり、と日向の手に体温が戻ってくる感覚を影山は感じ取った。ほっとする間もなく、どんどん温かくなっていく左手に思わず両目を開いた。閉じていた瞼の先にあったのは、じっと見上げる日向の二つの目。ばちりと視線がぶつかる。
「何だよ」
 つい、いつもの調子で憎まれ口がこぼれ落ちた。
「そっちこそ、いきなり『手ェ出せ』って何のつもりで」
「別に何だっていいだろ」
「じゃあさっさと離せ!」
「お前から離せよ」
「そっちから握ってきたんだろ!」
 ぎぎぎ、とお互いの手に力がこめられる。じわじわとお互いの掌に汗がにじみ出てくる。その感触に、相手の手を握っているのだという実感が強まってくる。日向の手はますます温度を上げて、影山の手すら温め始めていた。改めて感じる相手の手の指の長さや掌のやわらかさに、胸の奥がむずがゆくなり叫びたい衝動に包まれていく。
「お前の手、大きくてムカつく」
「お前の手は熱くて二度と触りたくねぇ」
「じゃあ何でまだ握ってるんだよ!」
 ぱっと不意にお互いの手が離れる一瞬が訪れ、二人は慌ててジャージの裾で掌に滲んだ汗を拭いとった。日向も影山もお互いの顔を盗み見てはこそばゆい顔をして目をそらした。そして、同時に思ったよりも嫌な気がしなかった自分が理解できずに心の中で悪態をついたのだった。
「何やってんだ、閉めるぞー」
 体育館の入り口から顔をのぞかせたのは副部長の菅原だった。足元には部室から運んできたであろう二人の荷物が積み上げられていた。二人の顔を交互に見てから、いたずらっ子のような顔で影山に話しかける。
「それで、どうだった?」
 ニヤニヤと笑う菅原の横を通り過ぎて体育館を出ながら、そっと影山は答えを告げた。菅原は満足そうな顔で
「やっぱりな」
と笑った。そんな二人の様子に、一人日向だけが首をかしげていた。