登校中、道で猫と鉢合わせになった。誰かの家の庭樹から飛び出してきて、危うく蹴るところだった。茶色の毛を泥だらけにした小さな猫で、俺を見るなり威嚇してきた。こっちは何もしてないが、ボサボサの毛を逆立てて睨んでいる。
 ここ数年、動物に好かれた覚えがない。好かれたかと思えば必ず逃げられる。最初は向こうから近づいてくるのに、俺が手を出すと、どんなに騒いでいたやつもいなくなる。ついてくるだろうと思って歩いていたはずなのに、ふと振り向いた時には、もういなかった。エサをやると声をかけても、二度と俺の前には現れない。
 こいつもそうだろう。足元までにじりよってきた猫を見下ろす。猫は俺を見上げながら、ぐるぐると俺の周りを回り始めた。
「お前にエサはやらねぇ」
 だからさっさと逃げろ。猫は俺の声に対して、にゃーにゃー鳴き始めた。
 俺は構わず歩くことにした。俺には行く場所がある。こいつと遊んでる暇はない。
 進む俺の後ろから猫の声がし続けている。小さくなるどころか大きくなることで、ついてきていると思った。いっそついてこれない速度で進んでやる、そうきめて足を大きく前に出し歩幅を広げた。猫の声は次第に聞こえなくなった。やっぱり無理かと振り返る。
水たまりの中で、さっきよりも汚れた猫が俺を見上げて、にゃあと鳴いた。
 こいつはついてこれたのか。しゃがみこんで猫の顔をのぞきこむ。駄目元で手を差し出すことにした。右手を猫の目の前に出すと、鼻先を寄せてにおいを嗅いだ。大きな目が俺の顔を見たと思ったら、指先に痛みを感じた。噛みついた猫を振りはらう。このやろう。ようやく離れた猫を睨みつける。俺を見ている大きな目と目が合って、まだいる、と気づく。いつもだったら影もなく逃げられた後のはずなのに、茶猫は泥だらけのまま俺の前に立ち向かっている。もしかしたら上手くいくんじゃないのか。
 鞄の中から昼飯のおにぎりを出し、中を割って鮭をつまみ出した。茶猫の目が俺の手に釘づけになる。差し出した鮭の身につられて、小さい体が近づいてくる。
あと一歩のところで猫の体に腕を回し、そのまま一気に抱き上げた。俺は茶の毛に顔を埋めて目を閉じた。
 やっとみつけた、俺についてこれるやつを。




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 目が覚めたら、まだ夜だった。一瞬どこにいるのか分からなかったが、部活の合宿で泊まってるんだとすぐに思い出した。トイレに行きたい、そう思って寝返りをしようとしたら、肩に何か重たいものが乗っていることに気がついた。ぼんやりしていた世界が、暗さに目が慣れて少しずつ見え始める。窓から外の明かりが差しこんで、部屋に並んだ布団を照らしていた。
 体をひねって布団から抜け出す。肩から落ちた何かを見るためにふり返ると、隣で寝ていたはずの影山がいた。こいつ寝相悪っ、明日文句言ってやる。トイレに行って帰ってくる間に、そう決めた。おれが戻ってきても影山は同じ恰好のまま寝ていて、仕方がないから足でどかして寝ることにした。



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 猫は思ったよりも大きくて温かかった。知らない間に毛の汚れはなくなっていて、乾いた毛はふわふわしてやわらかい。昼間干した布団のような、太陽のにおいがした。いつかこうやって抱きしめてみたいと思っていた。胸いっぱいに息を吸い込み、そのにおいで自分を満たす。つい思いあまって腕に力がこもる。
 大人しくしていた猫は突然大きく体をよじって暴れ始めた。俺の顔を前足で遠ざけ、胸のあたりを後ろ足で蹴ってくる。猫とは思えないその力に奥歯を噛んだとき、俺の腕の中からするりと抜け出していなくなってしまった。



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 またか、と心の中でこぼした瞬間、目が覚めた。夢と現実の境界が分からないまま寝返りを打つ。胸のあたりが重くなっている気がして、自分が落ち込んでいるのだと自覚した。まだ半分寝たままの脳みそが鈍く動き出す。
 体を包む眠気に負けて目を閉じる。眠りの空間へ引っ張られる感覚に気持ち良く満たされていると、鼻がむずむずして、くしゃみが出た。ショックで眠りそうだった頭が冴え、現実に引きずり戻される。目と鼻の先に茶色の毛のかたまりがあって、こんなところに逃げたのかと腕をのばした。
逃げないように抱きよせて、腕に力をこめる。猫の心臓の音と呼吸する音が聞こえて、妙に安心して目を閉じた。
 眠りに落ちる直前に、腕の中の猫が寝言を言った。
「いつかお前を倒す」
 俺は腕の中の存在感に、ほっと息をついた。

 あぁ、お前だったのか、と。