それは母さんにおつかいを頼まれ、近所のスーパーまで明日の分の牛乳を買った帰り道のこと。牛乳パック二本の入ったビニル袋を指にかけて、いつもの道をぶらぶらと歩いていると、ふと脇へと逸れる路地裏に目が留まった。太陽と同じ方向へ伸びるその道の上、左右に並んだ建物や樹木の影が、太陽のある方角へと向かって伸びている。その違和感に気付くまで俺は数秒そこに制止していたわけだけれど、気づいた瞬間、思わず一歩、足を踏み入れていた。
 影が太陽に向かって伸びる。そんなこと、あるわけがない。自分の見間違いか、はたまた夢でも見ているのかと自分の目を疑いながら、自分の前後に横たわっている二種類の影を見比べてみた。完全に何かがおかしい。さっき踏み出した右足から伸びている影は太陽のある方角へ、そして元の道の上に残した左足からは太陽と真逆の方へと伸びている。これはどういうことかと後ろ脚も一歩前に出してみれば、そのたった一瞬を境にして、俺の両の足の影は同じ方角へ伸びていた。そう、どちらも同じく、太陽のある方角へと。
 指に食いこむビニル袋の牛乳パックの重さを感じながら、どういうことかと首をひねり、とりあえず辺りをぐるりと見渡した。影以外、何ひとつ変わった様子はない。ひねった首を太陽の方へ戻した時、どこか懐かしい香りがして、何故か俺の目の前には、さっきまでいなかったはずの黒猫がこちらをじい、と見上げて道の真ん中に座りこんでいた。
 これはもしや、ファンタジーものの主人公によくある例のシチュエーションじゃないのか。そう思う俺の考えを読み取ったみたいに、金色の目を細めた黒猫は、着いてこいと言わんばかりに背中を向けて道の奥へと歩き出していた。俺はどこに導かれるのかもわからないまま、相変わらず指に食いこむ重たいビニル袋を手に提げて猫の後姿を追った。猫は右に左に細い路地をくねくねぐるぐる歩き回った後、フッと突然姿を隠してしまった。どこに行ったんだ、お礼もさせてくれないで。そんなことを口の中でもごもごこねくり回している俺の立っている場所は、何故か高校の体育館の裏側にあたる、フェンスの側だった。
 見上げた先にある体育館の中から、聞き慣れたボールの弾む音と、シューズの立てる床との音が聞こえてきた。おかしいな、今日は部活はもうとっくに終わって解散したっていうのに。首を傾げながら、俺は校門のところまで緑のフェンスに沿って、相変わらず重たいビニル袋の食いこんだ指の感覚をわずらわしく思いながら歩いて中に入った。どうせ、日向か影山が勝手に残って自主練でもしているんだろう。そんなことを思い到りながら、数時間前に後にした体育館の入り口から中をのぞきこんでみた。
「次、レシーブ練はじめるぞ、並べー」
 意外にも、中には予想以上に多くの人影が立っていた。逆光で顔は見えないが、今響いた声は明らかに大地の声だった。おかしいな、と顔を前に出して目を凝らしてみる。外より陰って暗くなっている体育館の明るさに目が慣れてきたころ、見飽きた体育館の光景が目に飛び込んできた。一年の四人はもちろん、二年の部員も全て揃っているだけじゃなく、大地もスガもいつもの練習着姿でレシーブ練の体系に並んで待機している。これはもしや、俺が勘違いをしていただけで、本当は部活があったんじゃないのか。今の俺はうっかり練習をサボってしまったんじゃないか。そんな不安が湧き上がってきて、このままではいけないと焦って靴を脱ごうとした。すると、待機列に並んでいたスガと不意に目が合った。
「旭」
 声までは聞こえなかったが、スガがそう発したのは唇の形で分かり切っていた。これは不味い、相当いじられて面倒だぞ、と慌てた俺に対し、スガは何故か目を反らした。え、と思わず体が強張った。そうしたら、今度は大地と目が合った。
「あ、旭、お前」
 目を見開いて俺を睨む大地の反応に、まだスガの方が良かったのにと俺は慌てて弁明のために口を開いていた。
「いや、これは、その、間違いで」
 ズカズカと入り口まで近づいてきた大地が俺の目の前に立ったかと思えば、突然、俺の胸倉を乱暴に掴んだ。へ、と驚く俺を睨みつけてくる大地の顔は尋常じゃない表情で、ふと、いつだったか大地のこんな顔、見覚えがあるなぁとか余計なことを思った矢先に、
「お前、今さら来て、間違いとか、どういうつもりで言っているんだ?」
「わ、悪かったと思ってるよ……だから、その、今すぐ俺も着替えてくるから、」
 ぱ、と離された反動で倒れそうになるのを堪える。足元に下ろしていた牛乳パックが潰れなくてよかった、と思っていると、目の前で顔をうつむけたままの大地が拳を握りしめ、
「それで許されると思ってるのか?」
 そう告げるなり、俺と目を合わせることもなく、強引に体育館の入り口の扉を内側から閉めてしまった。残されたのは事態が飲み込めていない俺と、すっかり温くなってしまった牛乳パックが二本。
 体育館の中では練習が再開したらしく、相変わらずボールの跳ねる音とシューズの鳴る音が定期的に聞こえてくる。大地とスガの反応を想い返しながら、どうして今俺は閉め出されているのかを座りこんで考えてみた。あんなに大地が怖い顔をするのは初めてではないけれど、よっぽどの理由があってじゃないと納得がいかないレベルだった。で、この感覚は初めてというわけでもなく、どこで俺がその大地の表情を見たかというと、
「あ」
 思い出した途端、俺は校舎の入り口に向かって歩いていた。そんなばかな、と思いつつ、さっきの猫の目の色や不思議な路地裏のことを思い返しながら、まさかと呟きながら校舎の昇降口へと足を踏み入れていた。3年3組1番左端の一番上。使い慣れたその場所にあるシューズの袋を見つけ、俺はやっぱり、と呟いた反面、信じられない気持ちで唇を歪めていた。袋の中身は確認しなくても分かり切っている。あの袋の中には、俺が練習の時使っているバレーボール用のシューズが入っている。そして、それがここに押し込まれているということは、俺はこのシューズを使えるように部室には置いていないということ。つまり、あの県民体育大会の日から、俺は部室にこのシューズを一度も持って行っていないということになる。そんなわけはないのに。
 足元に伸びる影が細く、長くなっていた。相変わらず、太陽の方へと向かって。俺が知る世界とは反対の方角へ伸びるその影を見つめて、反対、という言葉が舌の上に引っかかってこぼれ落ちた。
「反対の、世界……」
 俺はゾッとした背中の悪寒を振り払うように、一目散に校舎を跡にした。もうほとんど忘れて思い出せなくなっている道順を遡り、元居たあの道へと戻れるように、必死になって歩きつづけていた。振り返ることも無く、時間を気にすることも無く。そして誰ともすれ違わない気持ち悪さを味わいつつ、ふとした違和感に足を止めた。
 目の前の道に横たわる影だけが、こちら側とは反対に伸びている。
 ここだ、と顔を緩めた時、背後から猫の鳴き声がした。振り向いたらいけない。心の中でもう一人の自分が叫んでいた。
 俺はゆっくり、とにかく一秒でも早く、そして決して後ろを振り向くことはしないままに、向こう側の道へと一歩踏み出した。両足をそろえて立ち、足元の影が太陽と反対の方向へ伸びていることを確かめて、そして、ゆっくりと後ろを振り返った。
 金色の目と目が合った。細く針のように鋭くなった黒目をこちらに向けた黒猫が、俺を見上げて座りこんでいた。その傍らには重みで取っ手の伸びたビニル袋が。
 猫はもう一声高く鳴くと、ビニル袋の取っ手のところを器用に口で咥え、一瞬でどこかに走り去って姿を隠してしまった。
 あっけにとられている間に、ズボンのポケットに入れたままのケータイが震えた。俺は反射的に取り出し、画面をのぞきこんでいた。
『明日、いつもどおり8時集合の17時解散、って大地からの伝言』
 スガからのメッセージにハッとして、俺は無意識にスガに電話をかけていた。スガはワンコールで出た代わりに、驚いた様子で笑い声を混じらせながら、
「どうした、旭?」
 そのいつもの聞き慣れた日常にあるスガの声色に俺はひどくホッとして、気が抜けた代わりに大きな声で笑ってしまった。スガは訳が分からないと言いたげに「何だよー」と繰り返しながら、それでも電話を切らずに俺が話しだすのを待っていてくれた。
「いや、別に大したことじゃなくて、その……、戻って来られて良かったなぁ、って、それだけのことで」
「だから、何のことを言ってるんだよ、夢でも見てたって言いたいのか?」
 声を転がすように笑うスガの反応に、俺はホッと顔を緩めながら、こう告げて電話を切った。
「そうだな、悪い夢を見せられたみたいだ」
 瞼の裏に残っている、ビニル袋を咥えていった猫の後姿を噛みしめながら、俺は苦笑を浮かべつつ家に帰ることにした。まったく、牛乳が欲しいなら、最初からそう言ってくれれば良かったのに。なんて迷惑な話だろう、と思いながらも、ふと、今こうして文句が言えるのも、戻って来られたからなのだと気づかされて妙に感慨深くなっていた。今の俺にとってあの体育館は、紛れもなくいつでも戻れる確かな場所なんだ。その幸せを噛みしめた頃、やっと家に着いたと同時に、失った牛乳の言い訳をどう説明したらいいのか俺は悩み始めていた。