部活終わりの帰り道、思い出したように片手を上げた山口が、
「ごめんツッキー、俺今日嶋田さんとこ行かないと」
 そう言って申し訳なさそうに笑ってみせた。山口がそう切り出すのは初めてのことでは無かったし、正直またかという気持ちだったのだが、それならそうとすんなり背中を向ければ良いのに、こちらの顔色をうかがうようにぐずぐずして一向に歩き出そうとしない。上げた片手を間違いだったかのようにずるずると下げて口をかたく結んで黙り込む。何か言いたそうなその顔に、頭の隅で小さくカチンと鳴る音がする。
「早く行きなよ、嶋田さん待ってるんでしょ」
 そうだけど、と言葉を濁す山口の反応に、胸の中のもやもやが深くなっていく気がする。ちらっと見上げた山口の目が、さも僕のことを心配するような、そんな様子を物語っているのが、なんだか癪に障る。
 気まずさに口を閉ざしていると、頭の中に不意に薄ぼんやりとした映像記憶がよぎっていった。ずっと昔、同じような状況で山口のこんな顔を見た。それはいつのことだっただろうか。
 ただでさえ居心地の悪い現状に加え、頭の中にふわふわとした拠り所のない情報がふらついている気持ち悪さが胸を騒がした。
「ツッキー、」
 小さな呼びかけに目を向けると、山口がわざとらしい笑みを浮かべて
「また明日」
 寂しそうにそう言った。明日も会えるよ、と僕に向かって言いきかせているつもりなのだろうが、その声はとてもじゃないが説得力に欠けていた。そりゃ毎日同じクラスで、同じ部活で嫌というほど一緒にいるのだから明日も同じような一日がやってくることは分かりきっている。それなのに、自分の胸もどこか頼りない不安に揺れていることが気になった。
 馬鹿馬鹿しい、と胸の中で自分に向かって吐き捨てた。
「また明日」
 投げつけるように口にする。山口は小さくうなづいて、唇をぎゅっと結んで背を向けた。
「じゃあ、ね」
 じり、と重たげな足をようやく動かして山口の体がいつもの帰り道と違う道に一歩踏み込む。ちり、と胸の中で何かが痛んだような気がした。
 山口がいつも隣にいるとは限らないし、これから先自分よりもっと前に、もっと先に進んでしまっていくことだってあり得ないことじゃない。そんなこと、ずっと前から分かっていたはずだ。理解していたはずだ。だから自主練習に向かう背に特に思うことなどない、はずだ。
「山口」
 驚いた顔で山口が振り返る。それなのに、目が合った途端少し嬉しそうな、それでいてちょっと困ったような顔で笑った。
 一歩戻ってきた山口は慌てて両手を、学ランのそれぞれ左右のポケットに突っこんで何かを探し始めた。その間抜けな様子が頭の中の記憶と重なり、ひとつの答えを示した。
 あれは小学校高学年の頃、今以上にべったりだった山口が、初めて別の学校の友逹を作ってつるむようになった時のこと。毎日一緒に遊ぼうと帰り道で声をかけてくる山口にうんざりし始めていた頃でもあったから好都合だと思えて、ついこのまま一人に戻っても構わないなんて考えていたせいか、久しぶりに声をかけてきた山口に冗談交じりに、
「飽きたんなら向こうとずっと遊べば良いのに」
 すると山口は驚いて、あわてた様子で
「ツッキーとは毎日会えるから、明日もその次もその次の日も、絶対学校で会えるから」
 その自信満々の答えに、何故かイラッとした。
「ふぅん……もしも、風邪を引いたら?会うタイミングが合わなかったら?明日突然転校が決まったら?」
 たたみかけるように口から出てきた疑問符の羅列に山口は圧倒されて言葉にならない、という顔をする。
「絶対に、明日も会えるって断言できる?」
 意地悪な問いに、山口は唇を震わせながら、胸の前に掲げた両手を握りしめた。小さな二つの握りこぶしは小刻みに揺れていた。
「約束するよ、絶対何があっても学校に来るって」
「どうやって?約束を破らないって保証は?」
 ぐっと言葉をつまらせた山口は、突然ズボンのポケットを両手で探り始めた。すぐに、はい、と目の前に拳を突き付けられる。
「何」
 片手を開いて、その手に握られた何かを受け取る。自分の掌の上にころりと落ちてきたのは、まだ使い始めの綺麗な消しゴムだった。
「これ、ツッキーが持って帰って」
「は?」
「俺、今持ってる消しゴムこれしかないんだ。今月お小遣いも、もうない」
 切羽詰まりすぎて顔を赤くした山口が声を張り上げてそう言った。鼻息荒く僕を見るその顔を横目にしながら、その真意を考える。
 この消しゴムがなかったら山口は明日の授業で困る。だから何が何でも僕に会いにくる。そういうことだろうか。でも別に学校に来ない限り消しゴムがなくたって困らないはずだ。真剣そのものの山口の表情からして、きっとその理屈には気付いていない。
「……馬鹿でしょ」
 ぽつりとつぶやく。山口は甲高い、素っ頓狂な声を上げた。
 いいよ、これ明日まで預かっとくから。
 その時の自分はそう言って、山口の消しゴムをポケットに押し込んだ。
 今目の前にいる高校生になった山口も、ごそごそと学ランのポケットを必死に手で探っている。あ、と小さな声を上げて何かを取り出す。
「はい」
 山口の綺麗とはいえない指先につままれていたのは、小さく丸くなった汚い消しゴムのかけらだった。
 変わってない、という安心感と、あまりの格好のつかなさに口元が緩んだ。小学生の時よりレベルが低くなっているなんて予想もしていなかった。これじゃ失くしたって文句も言えないだろうに。
 あの頃、数週間だけ続けていたやりとりに、懐かしさがこみ上げる。それは山口も一緒だったのか、それともつられただけなのか、気の抜けた笑いを浮かべてみせた。
「明日も、会えるよツッキー」
 馬鹿みたいな山口らしい笑い方に、いつもの調子を思い出しつつ、気を取り直してその小さなかけらを受け取った。
「預かっとく」
 消しゴムのかけらを学ランの胸ポケットに放り込んだ僕を見た山口が満面の笑顔になった。
「明日も絶対会いに学校行くから」
「あっそ」
 照れたように笑った山口が背を向ける。気が済んだ足取りで一歩踏み出して振り返ったその手は大きく左右に揺れた。
「また明日、ツッキー」
 つられるように小さく右手を振る。
「また明日」
 満足そうな山口の顔は、また変わらない明日を約束していた。
 明日朝山口に会ったら、今自分の胸ポケットの内側に転がっている消しゴムを差し出す。山口はホッとしたように笑う。周りが見たら、平凡な日常のやりとりにすぎないだろうけれど、その意味を知っているのは自分と山口だけだ。
 自分にとっての「また明日」を変えたのは、紛れもなく山口だ。そんなこと本人には死んでも言わないだろうけど、事実は事実だからもう変更は効かない。変更するつもりも、さらさらないのが事実だけれど。