もっと、もっと高く、誰よりも速く、輝くその頂きの光景へ。
 そう願う故に起きた鈍い音に、体育館中の誰もが振り返る。床に倒れる小柄な体にキャプテン・澤村が駆け寄り、珍しくあわてた様子で救急箱を抱えてマネージャーが近付く。練習が始まって1時間ほどが過ぎた時だった。
 その音の瞬間を誰よりも近くで見ていたのは、トスを上げていた影山だった。もっと速く、もっと高く。誰も追いつけぬ一打を繰り出すために。共通の想いを抱いて二人が練習していた最中、ふいに集中力の切れた日向の着地が甘くなった。もはや着地ではなく落下に等しい速度で床に転げた体を、影山は茫然と見つめていた。彼の胸を、強いデジャヴが襲った。
 キャプテンに名前を呼ばれ、日向は呻きながら半身を起こす。頭を打ったのか、ぼんやりとした顔つきで駆け寄った菅原に向かって返事をした。大丈夫そうだな、と笑った澤村につられて、張り詰めていた場の空気が自然と和らいだ。しかし、影山一人だけが未だ険しい顔をしていた。遠巻きに見つめるその目には、現在とは異なる光景が映し出されていた。速さを求めるがあまり、無理なプレーで体を壊してしまう日向の姿を、彼は夢の中で見ていた。全身の皮膚が冷や汗でぐっしょりと濡れて、体の芯から体温を奪われてしまったような気がした。
 立ち上がろうとする日向を、怒鳴り声で制止させた。目をしろくろさせる日向に駆け寄り「足」とだけ言った。
「あああああ、足?」
 影山の迫力にしどろもどろになる様子に、影山の苛立ちが募る。
「捻っただろ、見せろ!」
 太ももを掴み、引き寄せ、捻った右足首を見つめる。有無を言わさぬ影山の態度に、周囲の部員は目を丸くする。「氷!」と叫んだ影山の声に、体育館入口へと誰かが駆けて行った。必死な影山の横顔に、菅原は首をかしげ、少しの間を持って納得をした。自分のせいで何かを傷つけ、失うのが怖いのだ、と。
「どうだ、日向、痛むか?」
 澤村の問いに、日向は、あわてて首を横に振った。
「いえ、俺まだまだ練習できます、全然痛くないです」
「と本人は言ってるが、腫れもなさそうだし、冷やし過ぎても逆効果だ。影山、あんまり大袈裟にしなくていい」
 到着した氷をタオルにくるんでいた影山は、澤村の言葉に応えることもせず、うつむいた。唇を噛み、氷の入ったバケツの中を見つめる。溶け始めたタオルの中の氷が、手の温度を奪っていく。冷え切って痺れ始めた手を、熱い手のひらが覆った。
「俺は、まだとべる」
 手の主は、顔を上げた影山の目を見つめ、さらにこう言った。
「トスが上がるかぎり、俺は何度だって、とんでみせる。怪我をしても、熱が出ても、俺はとぶ」
 真一文字に引き結んだ唇が、決意の強さを物語っていた。その想いを受け取ったのか、影山の両の口角がニヤッと上がった。その顔は不安や恐怖ではなく、期待と好奇心で満たされ、武者震いで体が震えた。
「馬鹿野郎!」
 照れ隠しの咆哮を放ち、影山は氷を手放した。救急箱を手にしていたマネージャーに声をかけ、テーピングを受け取る。シューズと靴下を脱がせ、手早くテーピングの処置を施す。その光景を見ながらマネージャーの清水は、手慣れていると感じた。随分前から備えて練習していたようだ、とも。
「続き、やるぞ」
 テーピングを終えて立ち上がった影山に続こうと、急いで靴下とシューズを履いた日向の返事が、体育館の中に響き渡った。



速攻の練習の後、大事を取って安静にしてなさいというキャプテンのお達しで、日向は後半の練習から一人外れた。コートの外にいてもボールを追いかける目はキラキラと輝き、プレーしたいという気持ちが全身からあふれ出ていた。影山はそんな日向を横目に、一人罪悪感を拭えずにいた。練習終了の解散の号令を受けて体育館を出た背中を、影山は珍しく呼び止めた。日没後のひやりとした夜の空気が頬を覆った。
「自転車、俺が押していってやる」
 今日だけだからな、と念を押す姿に、日向は首をかしげた。普段から優しさや思いやりからは程遠い影山がこんなことを言うなんて、何かあるに決まってる。そう判断して浮かべた、いぶかしげな表情に、影山はムスッとした顔で補足した。
「今日一日くらい、あんまり負担かけない方が良いだろ」
 その言葉に、ようやく日向は右足首のことを思い出した。軽く捻っただけの足首は、腫れもせず痛みもなく、むしろ影山が行ったテーピングによって普段の何倍も動きやすいと日向は感じていた。
「別に大丈夫だし……もしかして、その代わりに今度肉まんおごれって言うんだろ!?絶対おごらねぇからな!」
「ハァ?俺がいつおごれって言った!?」
「今言おうとしたんだろ!」
 睨みあう二人を見ていた他の部員から笑い声がこぼれる。早く帰れよ、と体育館の鍵を閉めたキャプテンの言葉に、自然と皆の足が帰路へ向かった。
 結局、横からぐちゃぐちゃと言い続ける日向の言葉を振り払い、影山が日向の自転車を押して帰ることになった。いつものように先輩たちと坂ノ下商店で空腹を和らげ、自宅の方向ごとに道で別れると、影山と日向の二人だけになった。
 すっかり暗くなった夜の道に、影山と日向と自転車の長い影が街灯の光によって映し出される。乗り手もない軽さで回り続ける自転車のタイヤを見ながら、日向は影山の半歩後ろをついていた。口を閉ざしたまま先を行く背中にかける言葉もなく、慣れない空気に唇を噛む。何を黙っているんだ、影山らしくない。そんなことを一人胸の中でこぼしながら、歩を進める。見上げた空に浮かぶおぼろ月の曖昧さが、なんとなく気にくわなかった。
「あのさ、」
「無理、するな」
 なんとか言葉を絞り出した瞬間、影山の声がそう遮った。反射的に日向は、自分の心を読まれたのだと驚いたが、影山の次の言葉に、すぐに勘違いだと察した。
「あれは俺のせいで起きた。次は、もっと大きな事故になるかもしれない」
 足を止めた影山は、ぐっと唇を噛んだ。日向の言葉で掻き消されたはずの悪夢の光景が、再び脳裏をよぎる。強く閉じた瞼は、細かく震えている。うなだれた背中を見つめ、日向は眉を吊り上げた。
「お前のトスが上がる限り、俺はとぶって、さっき言っただろ!俺は俺の意志で、とんでる。もっと高く、もっと速くとびたいって、小さな巨人みたいになりたいって思ってるんだ。だから、中途半端なんて止めろ、俺は怪我しても熱が出ても、いつでも本気でとぶからな!」
 一息にぶつけた言葉に返事もせず、影山はしばらくその場に立っていた。眉間にしわを寄せた日向が様子をうかがい、顔を見ようとのぞきこんだところで、避けるように再び歩き出す。待てよ、と口にしても振り返ることもない。一瞬映った横顔が泣いているように見え、日向は戸惑いながら後を追う。
 そうだ、と何かを思いついて、日向は助走もつけずに高くジャンプをした。着地点は日向の目と鼻の先にある、その背中。しがみついた勢いでバランスを崩しそうになる自転車が音をたてる。おい、と声を荒げる影山の抵抗も気にせず、日向はその黒髪に手をあてると、大袈裟に頭を撫でた。
 普段の影山は言葉につまると、決まって日向の頭をなでるのだが、時にそれは感謝の気持ちの表れだったり、謝罪の代わりだったりする。中でも、以前、落ち込んでいる日向を励まそうとした影山が頭を撫でたことがあった。その時のことを思い出して、日向は実行に移したのだ。当時はチビとからかわれてるのかと思って怒りを抱いたのだが、自然と普段の調子を取り戻し、結果として励まされていたことに変わりはなかった。
 いつもの“王様”な影山は腹立つけど、元気がない影山も嫌だ。日向は気持ちを込めるように、ぐりぐりと影山の頭を何度も撫でた。さらさらの黒髪から汗のにおいの名残を感じ、プレーする影山の姿を思い出す。
「お前のトス、やっぱすげぇよ。何回でも打ちたくて仕方ないくらい」
 頭の上で止まった日向の手の存在を感じながら、影山は瞬きを繰り返す。背中にある重みは、普段考えているよりもずっと軽くて小さいと思えた。そんな体から発せられた言葉の強さに、胸の奥がじんわりと熱くなる。さきほども感じた、不安な気持ちが拭われる感覚をかみしめるように何度も目を閉じた。
「ありがとな」
 小さな声で、自然とこぼれおちた言葉は、静かな夜には充分なものだった。日向はもう一度その髪を撫でて、役目を終えた両手を影山の首にまわして言った。
「そうだ、このまま帰れば、一番の“安静”になるじゃん」
 満面の笑みを浮かべる日向に向けられた影山の罵声が、夜の空気に響いて消えた。