暖かくなってきたこともあって、春服が欲しいと言う山口と一緒に買い物に出かけた。昔から衣替えの季節になると洋服を買いに行こうと誘ってくる山口は、いつも自分では選ばずに、こちらが見立てた服ばかりを買って帰る。今日の山口も相変わらず、勧められた洋服を疑うことなく全てレジに持って行った。その結果、帰りの電車のホームで目いっぱいの紙袋を足元に下ろし、山口は疲れた様子で肩を回してみせた。
「だから買いすぎだって言ったのに」
「ツッキーが選んでくれた洋服なら、安心だから」
へへ、と笑った山口の顔を見て、ふと先日山口が「同じゼミの女の子にその服オシャレだねって言われたから、友達に選んでもらったんだって自慢したよ」と報告してきたことを思い出した。考えてみれば、山口が今日着ているコートも靴も、去年の暮れに見立てたものだ。
平日の昼間とはいえ、都心の駅のホームは混み合っている。電車を待つ列に並び、時計を見る。次の下りが来るまで五分もない。今日はさすがに、そのまま帰るだろうか。足元に並んだ荷物の中にある、教科書の詰まっているであろう山口の鞄を見る。昨日大学の講義の後、直接泊まりに来たこともあって、山口の荷物はもともと少なくはない。
昨日の夜、山口と夕食を作って食べ、返却日間近の映画のDVDを見て過ごした。今朝目が覚めて二人で、昨日の夕食で残ったスープに焼いたトーストを浮かべたものを食べ、支度をして一緒に家を出た。考えてみれば悪いどころか、まぁまぁ許せる日常だったのだが。
頭の中に、ひとつの光景が浮かぶ。このまま戻った暗い部屋の明かりをつけ、静かな部屋で夕食を済ませ、シャワーを浴び、明日の講義の支度をして、少し広く感じるベッドで目を閉じる。本来ある日常の風景とはいえ、それがこのあと待っているかと思うと、少し気分が沈む。
時計を見上げた山口が、こちらに視線を向ける。そろそろ電車来るね。その一言を言い終える前にホームにアナウンスが響く。白線の内側に、と告げる声に急かされるように、山口が下ろしていた荷物を背負い始める。この距離もあと数十分で終わってしまう。山口のことだからすぐにまた家に泊まりに来るだろうと分かっているぶん、次がいつかと尋ねるのは気が進まない。
「今日はありがとう、ツッキー」
席に座った自分の前に立つ山口が、荷物を網棚に押し込めながらそう言った。やっぱり今日は帰るつもりらしい、とその顔を見て察する。それも仕方ないことか。そう自分に言い聞かせながら、山口の話す、大学にいる野良猫の好物だとか、変な教授の一言だとか、そんな他愛もない話題にひとつひとつ頷き返す。そうしながら一駅、二駅、と山口の家に近づいていく電車のことをぼんやり考える。
次だ、と山口が、停車したホームの柱に書かれた駅名を見てつぶやいた。滑るように走り出した電車の揺れに耐えながら、網棚から荷物を下ろそうと腕を伸ばす。
「山口」
何?と手を止めて顔だけこちらに向ける。両腕の隙間から見える顔は、目を見開いたまま、しばらく黙っている。
首を傾げて不思議そうな表情になった山口は、電光掲示板に映された次の停車駅の名前を見てあわてて荷物に手をかけた。
もう一度呼びかけてみようか、その次にどんな言葉をかけたら良いのか。結んだ唇の内側がむず痒い。
間もなく、と続けて駅名を告げた車内アナウンスが流れる。荷物を肩に背負った山口の意識が、既に乗車口に向けられているのが分かる。この駅で乗り換えて一つ隣の駅が山口の一人暮らしの部屋の最寄り駅だ。それは山口も、自分も充分知っている。
電車が駅に向かって減速する。もう数分もない。窓の外を見ていた山口の顔がこっちを向く。またね、と告げるために口を開こうとする山口を止めるために、右手が自然とそのコートの袖をつかんだ。山口の目が驚いたように、少し見開く。合わせられた視線に、この手を離してしまおうかと心が揺れたが、なんとかつかみ続けた。山口の視線が「どうしたの」と尋ねてくる。ブレーキがかけられた車体に引きずられるように、体が大きく進行方向へ引っ張られる。電車が止まる。
「昨日言い忘れたけど、この前言ってたたこ焼き器、家に買ってあるんだけど」
ホームへ続く電車の扉が、静かに開かれる。数秒何かを考えている表情で固まっていた山口が、突然、満面の笑顔に切り替わった。肩にかけていた荷物を下げ、
「じゃあ今夜は二人でたこ焼きパーティしよっか」
嬉しそうに笑ってみせた。
再び電車が走りはじめる。あと十五分もすれば、家の最寄り駅に着くだろう。立ったままこちらを見下ろす山口と目が合う。
「たこ以外に中身、何を入れて焼こっか」
電車を降りたら食材を買い出しに行かないといけない。楽しそうに具材を考えている山口を見ながら、そう思った。