昨日、一昨日と二日続けて新しくできた彼女の自慢話をしながら早々に帰っていた及川が、今日はうってかわって部室に戻った岩泉をひとり出迎えた。ロッカーの前に置かれた錆びかけのパイプイスに腰掛けて制服姿でスマホをいじるその姿に、今回の彼女とも長続きしなかったという事実を岩泉は知った。
遅かったね、とふざけた調子で口にしながらベンチの上に置いた体育館の鍵を手にし、リングを指にかけてくるくるとまわし始める。自分の意志で勝手にひとり待っていただけなのに責めるようなニュアンスを含んだその言葉は、岩泉を少しイラッとさせた。
及川徹という人間はひどく身勝手でいい加減な性格をしていることなど幼いころから知り尽くしてはいたが、それが露骨に現れるこんな場面において岩泉はいつも苛立ちを隠さずにはいられない。第一、いつだって彼女をつくるのも別れるのも岩泉にとっては及川の”勝手な部分”のひとつだった。
付き合って3日は及川にとっての最短記録ではなかったか、と岩泉は自らの記憶を振り返ってみた。物心ついたときには既に隣にいた二人だからこそ、相手に起こった出来事の大部分は過去の自分に起こったこととほぼイコールになっている。今までの最短記録だった5日間の彼女はたしか中学2年の春に付き合っていた、ひとつ上の学年の先輩だったはずだ。その時もその日まで毎日その先輩と下校していたくせに、別れたその日には何も言わず俺と一緒に帰ろうと下駄箱のところでこんな風に待っていた。頭の中によみがえった当時の及川と重ねるようにして、岩泉は横目で隣りにいる男を盗み見た。
当の本人はスマホの画面を覗き込みながら、飄々とした顔で岩泉が着替え終えるのを待っている。きっと大したことは映し出されていない小さな画面を、わざと面白そうに見つめるその目に岩泉はぶっきらぼうに声をかけた。
「また振られたか、クソ及川」
え、と顔を上げたその目は漫画のように丸く見開かれていて、人をおちょくるようなその表情が本心によるものではないことは言われなくともわかっていた。
「悪役になってあげただけ、ほら俺岩ちゃんと違って引く手あまただから」
それはつまり、今回の相手には一方的に振られた、という意味か。及川の返答がただの強がりであることを岩泉はすぐに読み取っていた。いいわけのパターンによってその交際の顛末がわかるようになったのは、ここ一、二年の話だった。
過去のいくつもの事例から導き出した答えで、ひとつだけ確かなものがある。この男は、もっぱら傷つくことに弱い。特に恋愛に限ってそれは顕著であり、時には自分の非を決して認めようとはしないし、あえて開き直って見て見ぬふりをすることも多い。そう分かっていても演技で見せつけている明るさや、人の神経を逆なでする仕草や表情にいい気分がするはずもない。そうさせられているのだ、と知っているだけに及川の手の中で踊らされているような気にもなり、ますます岩泉の腹の虫が騒ぎ出すのは仕方のないことだった。
着替えを終えて鞄の中に荷物を詰め込んだところで岩泉が顔を上げると、
「いーわーちゃん」
目の前を立ちふさぐかのような至近距離で及川が立っていた。なんだよ、と睨みをきかせる岩泉に対し、何か言いたげな表情のまま目を細める。スッと顔を傾け、そのまま距離を縮める。ちゅ、とか細い音が二人だけの部室の真ん中で生まれて消える。
「何すんだよ、変態」
口をぬぐうこともなく、そのまま睨み上げた岩泉に対し、悪戯っ子のように笑って見せた。
「岩ちゃん、寂しそうな顔してたから」
「あ゛?」
他人が見たら何を考えているのか読み取れない、いや読み取らせない薄っぺらい笑みを浮かべたまま黙り込んだ及川に、岩泉はあきれて視線をそらした。これもきっとただの気まぐれ、”身勝手”のひとつに間違いない。そう思った岩泉の目には、及川の表情こそ寂しい時のそれとしか映らなかった。
寂しさに弱いこの男は、今までも何度か岩泉とそういう関係をもったことがあった。それは二人だけの秘め事に他ならず、今まで過去及川と付き合っては別れてきた女たちや、今もなお好意や憧れをもっている周囲が知ったらどんな反応を見せるだろうか、と時折岩泉は考えずにはいられなかった。この男が情事の際に見せる荒々しい顔を他の異性との時も見せているのか、その確認こそ出来はしないが、この男の性格からいってそんな野暮な面を見せるわけがないだろう。この男は基本、周囲に対して弱いところを見せるタイプではないのだ。
誰よりも長くこの男と”付き合っている”のは他ならない岩泉であり、その表情をひとつでも多く目にしているのも同じく岩泉ただ一人に限っていた。お互いの関係が特別であることをあえて言葉にしなくても岩泉はうっすら理解していたし、十年近い年月が経った友人にそれを確認するのは今さらすぎる話だった。
「帰るぞ」
エナメルバックを肩にかけ、岩泉は部室のドアへ振り返った。後ろからついてくる及川の表情はどこか満足げで、そして今まで隠していた寂しさを初めて表に滲ませていた。二人の間で言葉にするには一歩足りない気持ちばかりが広がっていき、岩泉はその空気を背中でしっかりと感じ取っていた。
本当はもう何年も胸に抱いているその気持ちがこぼれおちないよう、岩泉は、ぎゅっと唇を噛んだ。その一言ですべては変わり、すべてが良くなる可能性もゼロではなかったが、言い出すきっかけは当の昔に見失っていた。素直になれない及川に深く追及できずにいるのは、自分にその資格がないからだと言い聞かせる。恋愛において彼もまた、傷つくことに弱かったのだ。
二人並んで歩く帰り道で、ふいに及川がぽつり、
「岩ちゃんて、本当に時々かっこいいよね」
ずるい、と冗談めいてつぶやいた。その言葉には少しの悔しさと、隠された恋心が含まれていたけれど、岩泉は聞かなかったふりをして、その肩をいつもより強めにはたき返した。