気がつくと人混みの中に立っていた。良く晴れた夏空の下、車や多くの人が行きかう大きな道の真ん中で、俺一人だけが歩みをとめていた。じりじりと照らされたアスファルトに反射する光に目を細めながら、ここが烏野みたいな田舎じゃないことを知る。
 どうしてこんなところに立っているんだろう。真上にある太陽を見上げながら鈍く動く脳みそで考える。俺の横を人が通り抜け、追い越しては振り向かずに進んでいく。目の前の信号が青から赤になり、人間の代わりに俺の前を車が動き出す。
 どうしてここに来たのか、どこへ行こうとしていたのか、それすら思い出せなかった。仕方がないから、とにかく前へ進むか、どこか座れる場所を探すしかないのかも、なんて考えていた俺の横を見慣れた横顔が追い越していく。細身の体に似合わない大きなヘッドホンで世界から自分を守りながら歩くその姿に、体が反応した。
 待って、ツッキー。
 思わず前に出た足で追いかける。振り向かない背中に向かって名前を呼ぶ。喉の奥から精一杯の声を出そうとする。それなのに上手く声が出てこない。もしかしたらヘッドホンをしてるから聞こえないかもしれない。俺は足に力をこめて走りだす。じりじりと近づく背中に向かって右手をのばす。ツッキー、俺だよ。口から出ているはずの言葉は遠くの方から聞こえてくるように小さくて、自分の声じゃないみたいだ。どうして、何かが変だ、そう思った時やっとその背中に指先が届く。とん、と軽く触れた、と思ったのに、ツッキーは何の反応も見せずに更に遠ざかっていく。
 どうしたのツッキー、俺ツッキーを怒らせるようなことしたかな……!
 走りながら叫んでみたけれど、ツッキーに変わりはない。仕方がないから少し俺より高い肩をめがけて右手を伸ばした。ぽん、と載せたはずの掌は止まることなくツッキーの背中へと吸い込まれる。
 とっさに引き戻した自分の右手を見る。輪郭の薄くなった右手の甲の向こうに、隣を歩く人の足先が見えた。どうして。あわてて顔を上げると目の前の横断歩道でツッキーが信号待ちをしていた。ツッキー、ねぇ、俺だよ。急いで駆け寄ったその耳元に手を添えてつま先立ちで問いかける。
 ねぇツッキー、いじわるしてるんだったら返事して、俺の声聞こえてるよね?わざと聞こえないふりしてるだけだよね?そうじゃなかったら俺、もしかして……
 自分で口にしそうになって、心臓のあたりがぐっと狭くなる。喉の奥が痛くなって、目の周りがじわりと熱くなる。そんなはずないよね、そう口で誤魔化しながらツッキーの手に自分の手を重ねたけれど、ツッキーの手の温度もやわらかさも俺の手には伝わっては来なくて、ふわふわと空気を触っているみたいだった。
 嘘だ、そんなの嘘だ。胸の中でくり返し何度も唱えては、目の前にあるツッキーの背中に、肩に、胸に、腕を伸ばす。温度のない水の中に手を伸ばしたように、俺の腕はツッキーの体を擦り抜けて見えなくなってしまう。これは夢だ。こんなこと、あるはずない。俺は唇を噛んでツッキーの体に両腕を伸ばした。俺の両腕は交差したまま、あるはずの抵抗もなく、そのまま自分の肩を抱いた。
 長すぎる信号がようやく青に変わる。ツッキーはあくびをしながら横断を始め、俺の前を遠ざかっていく。こんなの嫌だ、そうつぶやいた俺の頬を熱い雫が伝った。自分の涙の温度だけは分かるんだ。そう思ったらボロボロとあふれて止まらなくなった。  ツッキーは早足で先へと進んでしまう。待って、ツッキー。あわてて追いかけた俺の声が届いていないことは明らかだった。それでも声を出すのを止めることはできなくて、離れてしまう怖さに急かされるように足を動かしていた。ねぇツッキー、俺いつからこうなのかな、ツッキーの隣にずっといるって言ったあの約束、守るつもりだったのに何でこうなったのかな。ツッキーは歩きながらポッケから出したケータイで時間を確認して、もう一度しまいこんだ。俺、ツッキーを一人にさせるつもりなんてなかったのに、ねぇどうして。今度行こうって言っていたケーキ屋さんもまだ行ってないよね、俺ツッキーといろんなことしたかったのに、もっとたくさん思い出をつくって、もっとたくさんツッキーのそばにいたかったのに、何で。
 ふいにツッキーの足が止まる。目の前には大きなビルがそびえたっていて、いくつも貼られたポスターから映画館だと分かった。そのビルの入り口でツッキーに向かって手を振る女の子。その仕草にツッキーの口元がほんの少し緩み、当然という手つきでヘッドホンが外される。遅くなってごめん。いいよ、今来たから。そんな二人のやりとりを見た俺の頭の中には、揺るがない答えが出来あがる。
 そっか、ツッキーは一人じゃないんだ。そう思えた時、心の中は不思議と穏やかだった。ビルの中へ向かって歩き出す二つの背中に、口元を緩める。止まらない涙と合わさって、自分でも明らかにそれが泣き笑いになっていると分かっていた。
 自分の手を見つめながら、必死にいろんな言葉を言い聞かせる。大丈夫なんだ、ツッキーは俺がいなくても幸せになれるんだ、だってツッキーだから。ぽたぽたと垂れた涙は掌を通り過ぎ、足元へ消えていく。一歩ずつ離れる背中に、ありがとうとごめんねをくり返す。ふくらんでいた気持ちを押し込めて、小さくなったその中で、ただひとつ消せないものが止まろうとする俺の心を動かす。あまりにも軽い体に、自分のものではないように感じる。
 ずっと見ていた背中に駆け寄り、めいっぱい腕を伸ばした。擦りぬけないよう輪郭に触れる距離で、そっと体を寄せて目を閉じる。
 大好きだよ、ツッキー。
 願いをこめて、想いの全てを託すつもりで囁くと、眩しい光の渦が足元から湧き起こった。ふわりと浮き上がった自分の体に、これからの行き先を知る。光は足元から少しずつ体を覆い始め、俺の体を消していく。光の洪水に包まれながら、俺は一秒でも長くツッキーを見ていたくて、じっと目を凝らしてツッキーのことを見ていた。
 ツッキーの姿が見えなくなる、その最後の一瞬で、突然ツッキーがこっちを向いた。目が合ったと思って嬉しさに笑った俺に応えるように、ツッキーの目が少し見開いて、懐かしそうに俺の名前を呼んで微笑んでくれた。
 少しずつ消えていく世界の中で、ツッキーの笑顔がいちばん最後に残った。
 俺はまぶたの裏に焼きつけたその姿を愛しむように、ゆっくりと目を閉じた。俺の世界は真っ白になって、そして音もなく消えていった。